大井川通信

大井川あたりの事ども

作文的思考

僕は、以前から、自分が書いているものが「作文」であると考えてきた。学校の授業で書かされた、あれだ。源流をたどれば「生活つづり方」みたいなものになるのだろうけれども、ふつうに作文というのがしっくりくる。

学校の授業で、作文がとくに得意だったわけではなかった。文章は下手だし、短いものでも意味が通じるものを書くのに、とても苦労する。それでも、今でもこうして書き続けているのは、それが僕が考えるための必要な方法であるからだと思う。

日々の暮らしの中で、気づいたり発見したりすることは、けっこうよくある。おしゃべりだから、それを口にすることは多いけれど、要領よく話すのは得意ではない。何度も同じネタを話しながら、少しづつ物事が明確になっていく。

話す機会がない発見だと、作文を書いてまとめるしかないことになる。だから、生活の全方位に渡って、作文の内容はひろがっていく。得意だったり、知識があったりする分野よりも、よくわからない、どう考えていいかわからない事態に直面した場合に、「作文」は本領を発揮する。

こんなことを書いていいのだろうか、とちゅうちょした内容の方が、自分にとっては、書いてよかったと思える「作文」になることが多い気がする。言葉の働きがそれだけ大きく、自由になるからだ。

こんなふうにして、まだしばらくは、「作文」を書きながら「作文」とともに「作文」を支えにして生きていくのだろうと思う。