大井川通信

大井川あたりの事ども

建築家徳永庸のこと

安部さんからメールで、「日本海海戦紀念碑」の設計者についての質問が入る。「徳永庸」という名前を思い出して返信したのだが、決して有名ではない彼の名が、すぐに浮かんだのが不思議だった。たしかに15年ばかり前に因縁があったのだが、今の僕は中年過ぎて一度かかわっただけの人間の名前など、忘れている方が普通だからだ。

徳永庸(1897-1965)は、福岡県古賀市出身の建築家だ。早稲田の建築学科の一期生であり、その卒業記念写真には、総長の大隈重信を中心に、伊藤忠太、佐藤功一、今和次郎らそうそうたる顔ぶれのスタッフが写っている。

早大で教鞭を取るとともに、辰野金吾佐藤功一の建築事務所を経て、昭和2年に徳永庸設計事務所を立ち上げて、戦前戦後に多くの建築を手がけた。代表作だった銀座の東邦生命ビル(1931)は取り壊されてしまったけれど、 神田の山梨中央銀行本店(1929)は健在だ。佐賀の徴古館(1927)は博物館としてこれからも長く使われることだろう。

戦後は、実家のある福岡にも支所を構え、福岡銀行の多くの支店などの設計を行う。そのほとんどは建て替えられているが、久留米の教会など今でも見ることのできる作品もある。

 安部さんの祖父安部正弘氏が建てた日本海海戦紀念碑(1934)の設計に徳永庸がかかわったことは、正弘氏の手記によって知られるだけだ。徳永庸の没後刊行された追想録にある詳細な作品リストにも記載されていない。

村野藤吾の本に、徳永庸に関するこんなエピソードがある。当時電気科で学んでいた村野が建築科に転科しようかと迷って、徳永にアドバイスを求めたそうだ。徳永の言葉を聞いて建築をやる決心を固めたのだという。

「まず第一に文学に興味があること、その次が数学ができること、その二つの条件があれば建築家としていける」

 はじめに文学をあげていること、村野がそれを晩年まで覚えていたというのが興味深い。

四半世紀

自分が20歳を迎えた時のことはよく覚えていない。30歳の時も、40歳の時も、もちろんそれなりに感慨はあったはずだが、特に記憶に残っていない。ただ、25歳になったときに考えたことは、はっきり覚えている。

100年という大きな時間の単位の四分の一を生きたという事実に、特別の手ごたえを感じたのだと思う。25歳を過ぎてから読んだ本に、1から番号を振ったりもした。あらためて何かをやり始めよういう気持ちが起きたのだ。

結局その気持ちは長続きはしなかった。今から振り返れば、自分のやりたいことが定まっていて、それをやりとげようという意欲と、いくらかの手がかりさえあれば、十分やりなおしのきく年齢だったと思う。ただ、僕にそのいずれもが欠けていたということだ。

長男が、昔の僕と同じように3年で最初の仕事をやめて、家に戻って職探しをしている。運悪く新型コロナウイルスの世界的な流行の時期に重なってしまい、この先も相当の経済の落ち込みが予想される時期にあたってしまった。

今日も面接から帰ってきて、リーマンショックを超える不況らしいと、笑っていた。自分がその年齢の時より、はるかに大人だと感心する。僕は将来についてノープランで、親への気遣いなんてできなかった。

時代のせいにするわけにはいかないが、今よりずっと単純な価値観が社会を支配していたことも少しは関係しているだろう。あるコースにのっていれば、ほとんど何も考えなくても行先ははっきりしていたかわりに、コースをはずれると思考停止になり勝ちだったのだ。

今日は、長男の25歳の誕生日。

 

 

目羅博士vs.蜘蛛女

江戸川乱歩の短編『目羅博士』(1931)が好きだったので、乱歩自身が着想を借りたと告白しているエーベェルス(1871-1943)の『蜘蛛』と読み比べてみたいとずっと思っていた。

エーベェルスの短編も、実際に起きたパリのホテルでの連続殺人事件を下敷きにしたもののようだが、実際に読むと、小説の設定のかなりの部分を乱歩が借用しているのがわかった。

同じ建物の一室での、窓辺での首つり自殺。首を吊るのが窓の内か外かの違いだけだ。3人の連独自殺者が出た後に、探偵役を買って出た若者が、同じ部屋に乗り込み、真相の語り手になるという展開も同じ。その手段が日記なのか実際の語りなのかという違いと、結果が敗者(相撃ち)となるか、勝者となるかの違いがある。

道をはさんだ向かいの窓辺の存在への無意識の模倣というテーマも共通。ただし、『蜘蛛』では、それが非日常的な魔力によるものであるかのように描かれている。模倣ゲームで自分が主導権をとっているつもりだったのに、実際には相手に操られているのに気づく部分の描写は、真に迫っていて怖い。

一方、『目羅博士』の方は、向かい合った壁面の全くの相似と月光の魔力という環境をしつらえて、人間の模倣本能を疑似科学的に説明するところにリアリティと魅力がある。「都会の幽谷」での犯罪の情景の美しさも格別だ。

『蜘蛛』の犯人役もなかなか神秘的で魅力があるが、都会に隠れ住む怪人物を造形する乱歩の筆力には及ばない感じだ。後の怪人二十面相を連想させるところもある。

作品の魅力では乱歩に軍配があがるが、かなり似ているのも事実なので、まあ引き分けとしておこう。

 

 

テレビを記録するということ

ファミリーレストランでの勉強会の席で、目の前にいる吉田さんがみるみる見知らぬ人へと変わっていく。知り合って6年くらいになるし、その間いろいろな会合で顔をあわせることが多かった。特にこの一年間は、一対一で毎月5時間くらいは議論している。たいていのことはわかっているつもりだが、まさかこんなことをしている人だったとは。

彼は、何冊かの手書きのノートと紙の束を、テーブルの上におく。ノートの表紙には、いつからいつまでという西暦の日付が書かれており、中には、その間のテレビ番組の放映情報が、一定のルールで書きこまれている。紙の束の方は、いわば作業用の個票のようなもので、番組ごとにつくられて放映期間や出演者や内容等を書き込む欄があった。

吉田さんは、これがノートの一部であること、この作業は途中でとまってしまったこと、前回からテレビについてレジュメを書くようにしたので、思い出して段ボール箱から久しぶりに取り出したことなどを、すこし自信なさげに言う。吉田さんにとって、自慢できるようなものではないから、今まで話題にすることさえなかったのだろう。

僕は、子どもの頃の吉田さんが、テレビ番組を見ることだけでなく、それを記録することに情熱を燃やしたことを最近知って、驚いた。映写技師であり映画のプロである吉田さんは、テレビなど眼中にないだろうと勝手に思っていたのだ。

当時、テレビアニメの「宇宙戦艦ヤマト」の音声を録音してノートにセリフを書き写している友人は僕のまわりにもいたから、子ども時代の吉田さんがテレビ画面まで写真で撮影していたり、番組情報を編集するのに膨大な時間を使ったりしたという話にも、その徹底ぶりに驚くくらいだった。

しかし、吉田さんのテレビを記録したいという欲望は、とんでもないところまで肥大する。自分の好きな番組を手元に残すというところを超えて、放映されたテレビ番組に関する情報をすべて自分で記録に残しておきたいところにまで進んだのだ。

この作業を始めたのは、80年代に入ってからのようだから、吉田さんはすでに10代後半になっていて、テレビ漬けの生活からは足を洗い、映画をはじめとする様々なことにも関心が向いていたはずである。

にもかかわらず、吉田さんはテレビ番組全体の記録という作業にチャレンジする。唯一の限定は出身の大分県での放送開始以来の番組という条件だ。図書館に通い、マイクロフィルムから当時の番組表を出力する。それだけで、費用が何十万円もかかったそうだ。

当時はワープロもパソコンもない時代だから、記録の編集は手作業になる。各番組の個票をつくり、それをノートに落とし込むルールは、当時の吉田さんが独自に考えたものだろうから、ちょっとノートをめくったくらいでは、そこに記録されたデータの意味を読み取ることはできない。

この作業は、80年代の途中までの記録で止まってしまったのだという。残された資料は、まるでバベルの塔の残骸だ。しかし、仮にある時点までこれが完成していたとしても、その完成されたものがいったい何になるというのだろう。著作や研究論文として他者に見せたり、評価されたりする見込みもまったくないものだろう。

テレビというものへの無償の奉仕や献身としか、いいようのないものだ。吉田さんのその後の生き方や映画へのかかわりの原形を知ることができたような気がして、あらためて僕には及び難い人だと確信する。

 

 

『大津絵』 クリストフ・マルケ 角川ソフィア文庫 2016

学術書や専門書の入った文庫として、昔はよく濃紺の表紙の講談社学術文庫(1976-)を買っていた。いつのまにか、後発で白い表紙のちくま学芸文庫(1992-)を買うことの方が多くなった。それがこの頃は、クリーム色の表紙の角川ソフィア文庫(1999-)を手にする機会が増えたような気がする。

やはり後から出たものの方が、他にはない特色を出そうとするから、目について魅力があるように思えるのだろうか。いずれにしろ、この分野で競争原理が働くのはありがたい。毎月の新刊文庫のチェックは、岩波文庫とこの三種の文庫くらいしかしていないが、面白いものにぶつかることが多い。

大津絵は、江戸時代に東海道の土産物として流行した庶民の絵画だ。職人が量産できるように略画化され、型紙で彩色された。画題は120種類にも及んだが、旅土産のため大切に保存されることもなく、現在では国内外の美術館に数百点が残っているだけだそうだ。

この文庫は、大津絵の研究書だが、一般の読者にとっては、楠瀬日年(1888-1962)による大正時代の版画集をそのままカラーで収録している部分がながめて楽しい。日年は、大津絵が失われるのをおそれ、自分が確かめた大津絵を模写して版画にし、70余りの画題を扱った版画集を出版した。

これは大津絵そのものではないが、今の言葉で言えばヘタウマとでもいうべき大津絵の味わいはよく伝えているのではないかと思う。日年による画題の分類は、「仏」「庶民の神々」「鬼」「英雄」「若衆・奴・芸能民」「美人」「鳥獣」となっており、当時の庶民の関心事がうかがえて興味深い。

僕は、家の近所の古い町並みを歩くことで、石仏や地名や記録などを手がかりにして、体感的に江戸時代までは土地の記憶をさかのぼれると考えている。その際の感度を高めるためのビジュアルの資料として、この大津絵の版画集をパラパラめくっている。



 

自覚のない労働者なんて、労働者だと言えませんよ

50年くらい前の、ハンディサイズの古い文学全集の一冊を200円で買って、椎名鱗三をぼちぼち読んでいる。僕は本に関してだけ、妙に潔癖症で、本当は古本は苦手だ。しかし、この本は、初めてページを開く感触があったから、誰も開いたことのない本だったのだろう。一行も読まれることなく一生を終えるかもしれなかった本を読むのは、なんだか人助けをしたようで、楽しかったりする。

安部公房がエッセイで、どういう意味でかはわからなかったが、椎名鱗三こそ本当の作家かもしれない、といっていたのを読んで、しばらく間が空いていたけれども、手にとって「美しい女」を読み始める。

戦前の貧し時代の青年期のことが、ここでも、あからさまに、たんたんとした口調で描かれている。人間の裸形の真実が、ぶっきらぼうに投げ出されている感じが、僕は好きだ。

主人公が職場の同僚に俳句の雑誌をやるからと偽って呼び出されたのは、非合法に組合を結成するという集まりだった。尻込みする主人公に、オルグに来ていた若い共産党員はこういう言葉をあびせる。

言った本人には悪意はない。本文中にもあるのだが、もうすぐ革命があって、労働者が主役の世界がすぐ手に届くところにあると、本気で信じているのだから。

今でも、政治的な立場や、思想的な位置は様々でも、人間の有り様を軽々しく決めつけ、一刀両断にする言葉が大手をふるっている。理想や本来の姿を語る人間は、それに達しない人や事柄をあからさまにののしる権利があると思っているのだろうか。

一緒にくらす家族の心の中だって、本当はよくわからない。職場の同僚が暮らしで抱える問題など気づかないままだろう。まして、見ず知らずの人間の本当の姿や、自分のかかわりのない現場の本当の事情など、想像さえおよぶものではないはずだ。

僕自身もそのことを忘れがちになるけれども、自戒しよう。

 

 

カーブのむこう

五日ばかり空いてしまったが、「○○のむこう」シリーズの第三弾。安部公房の1966年の短編『カーブの向う』から。

坂道を上っている勤め人風の男がふと、カーブした坂道の先、丘の上がどんな世界につながっているのかわからなくなり、足が止まってしまう。坂をおりてバス停まで戻るが、今度は、その先どこから来たのかが思い出せない。記憶にある喫茶店に入るが、自分が誰で何の仕事をしているのかさえも覚えていないことに気づく。

茶店の中での女性店員への性的な視線がねちっこく、『方舟さくら丸』の主人公「もぐら」の妄想とよく似ているなあと思う。この短編でも、この女性との関係が、現実らしき世界への復帰のてがかりとなるのだ。

主人公は、思い切ってタクシーをひろい、カーブのむこうの世界に突撃する。

 

「べつに真空の中に投げ出されたわけではなかった。真空どころか、巨大な、見わたすかぎりの町だった。四階建の住宅街が、暗い空をおしのけ、どこまでも光の格子をくりひろげている。まさか、これほどの町があろうなどとは、想像もしていなかった」

 

小説の中では、既知の世界の消失という意味合いで使われている虚構の風景だろうが、これを実際の団地の建設による街の変貌というように解釈することも可能だろう。巨大団地という均質空間の出現は、人間の現実感覚を失わせる、というふうに。

やはり、ここでもニュータウンだ。安部公房が、というより当時の人間がそれに抱いていた違和感は、今の僕たちには想像がつかないものだったのかもしれない。

 

「方舟大井丸」の出航(その2)

旧大井村で住宅街の向かいにある里山には開発の手は及んでいないが、小説の「ひばりケ丘」と同様、ミカン畑が目立っている。しかし今では採算がとれず、太陽光発電ソーラーパネルに置き換わりつつある。

しかし、この里山の地下には、かつての大井炭坑の坑道が縦横に走っているはずだ。もっとも石炭を掘るための坑道は、地下の石切り場のような堅牢な構造ではないから、もはや「方舟」として核シェルター用に使うことはできないだろう。竹藪の奥に口を開いた坑口もコンクリートにふさがれている。

小説と同様に、この旧大井炭坑の存在はすっかり忘れられていて、まして坑口の位置などを知るのは、僕とその友人くらいのものである。これでは、僕自身がまるで「もぐら」だ。

この坑口に近い里山のふもとには、「方舟」づくりをしている人物が二人いる。二人ともこのブログには、何度も登場している常連だ。

一人は、「種つむぎ村」の原田さん。旧集落の古い屋敷を借りて、ほとんど独力で改修を行い、少人数の仲間とともに、カフェやギャラリーを営んでいる。田畑も作り、子どもたちの自然体験の場をつくったりもしている。会社員を辞めたあと、長年の夢だった理想の村づくりに手をつけた。たまにのぞくと、「昆虫屋」や「サクラ」のようなくせの強い人たちが出入りしている様子だ。

もう一人は、ひろちゃんこと弘二(ひろつぐ)さん。もともと旧集落に住む高校教師だったが、今では自宅の裏山の農園で、いろんな作物を作るとともに、養鶏や養蜂も行い、ほとんど自給自足の生活を行っている。体調管理のために、山でとった薬草を自分で煎じたりしている。このあたりの徹底ぶりは、原田さんもかなわない。

原田さんは仲間づくりを重視し、ひろちゃんは単独での決行だが、二人とも、現代社会の動向に背を向けて「方舟」の出航を意識しているのはまちがいない。

考えてみれば、二人は、年齢的に僕より10歳から20歳年長の、ちょうど小説の「もぐら」たちの世代にあたる。彼らは、石切り場を放棄した後も「方舟」の建設をあきらめたわけではなかったのだ。

 

「方舟大井丸」の出航(その1)

安部公房の『方舟さくら丸』を、ニュータウンと呼ばれる郊外の成立のからくりを描いた小説として読んでみた。ニュータウンが抱え込む闇の部分をいちはやく取り出しているからこそ、ニュータウンがオールドタウンと化して様々な問題が噴出している今でも、いや今だからこそ読むに耐え得る作品となっているのだろう。

だとしたら、僕が住む住宅街にも、どこかに「方舟」が隠されているのではないか。「方舟」への乗船資格のある人が存在するのではないか。

旧大井村は、里山によって挟まれた集落だ。駅側の低い方の里山は、段階的に宅地化されてすっかり住宅におおいつくされてしまっている。開発されたところには若い同世代の人が入居し、子どもたちの姿があふれるが、彼らが大人になって実家を離れると、老人たちばかりの空き家の目立つ街になっていく。

「猪鍋」のような不良少年たちの姿はすっかり消えて、「ほうき隊」のような老人たちが主役の街となりつつある。いや、夜中に街中を清掃したり、女子中学生を追い回したりするような元気な老人よりも、健康寿命が過ぎて、家で介護を受けたり、施設や病院に入ったりする老人たちが増えているのが現状だ。老人たちのための施設が街の周辺部に増えてきている。

「もぐら」はどこかに生き延びているのだろうか。リアルな世界から撤退して趣味や妄想に生きる「もぐら」は、プライバシーの確保できる住宅の個室に居場所を見出した。わざわざ地下に潜る必要はなくなったのだ。

バブルの前後には、消費社会やサブカル文化が「もぐら」たちに十分なおもちゃを与え、おもちゃに興じる彼らを「オタク」と命名する。現代では「方舟」に代わり、インターネットが彼らに電子的な要塞や迷路を提供しているだろう。

 

 

雨の日の鳥/晴れの日の鳥

雨の日、津屋崎の安部さんの家に遊びに行こうと思って、用山の峠を抜けると、玄界灘が見渡せる下り坂の電線に大きい鳥が止まっている。トビかと思って通り過ぎたのだが、ちょっと違和感がある。少し先に車を停めて、双眼鏡で振り返ってみる。

トビよりずんぐりとしたダルマのような身体。トビなら全身茶褐色だが、お腹のあたりがだいぶ白っぽい。二年ぶりの、ノスリだ。近づこうとすると、悠然と山の方に飛んで行ってしまった。

坂を下りきって、だだっ広い農耕地の中の国道を走る。道の脇の電線に、カラスが集まっている。なんということのない風景。でもカラスが少し小ぶりなのが気になり、走りながら咄嗟に下の枯れ田に目を落としてみる。そこには、たくさんのカラスの姿が。見逃すところだったが、渡りをするミヤマガラスの大群だ。そろそろ大陸に帰る季節だから、今季の出会いはこれが最後になるかもしれない。

次の日は晴れ。通勤の途中、畑地で、ツグミが数羽集まっている姿を見かける。冬には単独行動をとるツグミが群れだしたら、これも渡りの兆候である。近くの電柱では、カササギが木の枝で丸い巣を建設途中だ。鳥たちにはあわただしい季節がやってきたのだ。