大井川通信

大井川あたりの事ども

『死の淵より』 高見順 1964

昨年は、現代詩を義務的に読むことをしてみた。それで詩を読む習慣を、ほとんど学生の頃以来久しぶりに取り戻せたような気がする。今年は、さらに自由に詩を楽しんでみたい。あんまり目くじらを立てずに、肩の力を抜いて。

高見順(1907-1965)は、昔から好きな詩人だ。本業が小説家だから、変な詩人の自意識がなく、表現も単刀直入でわかりやすい。それでいて、比喩は鮮やかで深い。

犬が飼い主をみつめる/ひたむきな眼を思う/思うだけで/僕の眼に涙が浮ぶ/深夜の病室で/僕も眼をすえて/何かをみつめる (「みつめる」)

日当たりのいい/しあわせな場所で/車輪が赤く錆びて行く/小さい実がまだ熟さないまま枝から落ちたがっている/球根がますます埋没したがっている(「車輪」)

全編を再読してみて、この短い2編が二重丸だった。身もふたもなく言ってしまえば、前者は「神」を、後者は「悪魔」を、不在のまま指さしている。全44篇中、引っかかりを感じたのは18篇。やはり4割2分の高打率だった。

ただ今回愕然としたのは、戦前の左翼運動からの転向と従軍活動、戦後は日本近代文学館設立に奔走し、たくさんの作品を残して、ほとんどやるべきことをやりつくしたような作家の逝去の年齢が、今年の自分と同じということだった。人生の密度の差というのは恐ろしく、残酷だ。

亡くなった父の書棚にも一時あった詩集で、「青春の健在」と「黒板」の二編は父親の朗読を聞いていて、今でもその声が耳に残っている。二つともよい詩だ。「黒板」では、中学の英語教師の毎回の授業の最後の姿を思い出して、あんな風に人生を去りたいと詩人はうたう。「すべてをさっと消して/じゃ諸君と言って」

父親は交通事故の後遺症で寝たきりで3年間苦しんだ後、この世を去った。当時はとてもそんな風に見られなかったが、今から振り返ると、「黒板」のようなきれいな別れ方だったと思う。