大井川通信

大井川あたりの事ども

父親と落語

父親は渋谷道玄坂の生まれだった。戦前のことだから、父親の家族は転々と借家を替わったらしい。今でいうと「懐古厨」というのだろうか、父親は、昔住んでいた場所を訪ね歩くことがあって、何か所か、子どもの頃つきあわされたのを覚えている。もちろん、当たり前の街並みに連れていかれて、ここだと言われても、子どもの僕にはなんの関心も面白みもない。

しかし、気づくと今は僕も、昔住んだアパートなど懐かしがって訪ねていて、立派な懐古厨だ。しかも、嫌がる息子を無理につき合わせたりしている。

父親は戦前、落語が好きでよく寄席に通ったようだ。落語家に対する評価などはしっかり持っていて、若手には特に厳しかった。子どもの頃の僕は、そんなものかと思って聞いていたが、今思うと、自分の青年期の経験をよりどころに、よくあれだけ専門家をぶった切れるものだ。

しかし、これもまた同じように、自分の狭い経験や気づきを足場にして、自信過剰気味に他者を批判するのが、もはや僕の持ち味になっている。親子の遺伝というものは逃れがたい。

父親は先代の名人文楽に敬意をもっていて、落語として聞けるのは、やや落ちるが先代の円生、志ん生まで、次の世代では馬生だけがどうにか聞ける、という評価だった。それ以外の落語家はテレビなどの放送があっても見向きもしなかった。(姉によると、後年、歌丸には好感を抱いていたらしい)

父親が10代の頃だと思うが、寄席の楽屋で、文楽に入門を志願したことがあったそうだ。〇〇さんはまだ若いから、と文楽からなだめられたという話を聞いた記憶がある。