大井川通信

大井川あたりの事ども

安国寺で足利尊氏に出会う

人間の顔がどれも同じに見えてしまうという病があるそうだ。たしかに人の顔はどれも似たり寄ったりのはずだが、そこに様々な表情や美醜、精神の高下まで読み解く能力は、ふだん当たり前のように使ってはいるものの、特別な力なのだろう。人の顔を覚えるのが苦手という人もたまに聞くが、この特殊能力の強弱と関係あるかもしれない。

先日運慶展で、無著菩薩像を見たときに、それが高僧そのものであり、高僧の精神性をそのまま具現していることに驚いた。リアルな肖像というものは、現代の芸術を見慣れた目には、面白みのない安易な表現であるかように思える。しかし、人間の実際の顔立ちを分析し解析する能力は図抜けている。そこではごまかしはきかない。オリジナルで生気に満ちた人物を造形するのは、並の能力と修練ではかなわないだろう。

国東半島にある安国寺を訪ねた。峻険な山側でなく海側の町近くにあるのだが、静謐な環境は守られている。広い本堂で、重要文化財足利尊氏像をじっくり参拝できるのもありがたかった。安国寺は、教科書にも出て来るが、尊氏が全国に創建した寺院の一つだから、開山という扱いで信仰されているのだろう。

足利尊氏は、やや寄り目で、おどけたような表情にも見える。いや、おどけているのではない。彼の視線は、目の前の人間たちなどには見向きもせず、自らの内側にのみ向いているのだ。彼の空虚な内側には、世俗の権力や神々の力へのあこがれが渦巻いている。尊氏の身体は貴族の衣装をまとって、胡坐をかくように座っているが、丈の低い左右に思い切って広がった座姿は、デフォルメされて細部がきり落とされている。リアルな表情とは打って変わった抽象的な姿態が、権力の使徒である彼の人格の抽象性と釣り合っているように見えた。