大井川通信

大井川あたりの事ども

『夢野久作 迷宮の住人』 鶴見俊輔 1990

ドグラ・マグラ』を一気に読み切った余勢をかって、15年前に購入したこの本の文庫版を読んでみた。

夢野久作(1889-1936)に関する諸事実をひととおりおさらいするのにはよかったが、夢野久作や『ドグラ・マグラ』のことが深く分かった、という気はしなかった。そうとう昔のことだが、鶴見俊輔の書いた竹内好の伝記を読んだときもそんな感じがした記憶がある。

独特の文体を含めて、顔を出すのは、鶴見俊輔なのだ。久作を語っても、鶴見俊輔の思想の方法や体質がにじみでてしまう。国家と距離をもち地方と民衆に根差した個人の思想をたたえる鶴見節が、やや鼻についてしまう。

夢野久作の次男の三苫鉄児さんの記述もあって、懐かしかった。以前、福岡水平塾というサークルのメンバーとして、お付き合いさせてもらったことがある。津屋崎の玉乃井の会合で、まだ赤ん坊だった次男を抱いてもらった思い出もある。夢野久作が子どもに話したというおとぎ話のことなど、思い出をお聞きしておけばよかったと、今になって思う。

あとがきまで読んで、こんな一節にぶつかる。『ドグラ・マグラ』のさまざまなモダンな解釈とは別に、この作品の「ひなびたところ」を大切にしたいと鶴見は言う。

「複雑精緻な『ドグラ・マグラ』にしても、その循環構造は案外に、もうろくの中におちこむ人間の自然のなりゆきであるかもしれない」

こう書いて、久作が93歳の祖母の前で何度も同じ謡曲をうたわされたエピソードで、この本をしめくくるのだ。こんな指摘にこそ、鶴見の批評眼が宿っているのだと思った。