大井川通信

大井川あたりの事ども

泉鏡花を再読する

読書会の課題図書で『高野聖』が指定されたので、久しぶりに泉鏡花を読んでみる。

僕は、大学生の頃、泉鏡花が好きで図書館で全集をめくっていた時期がある。そのときは『歌行燈』を最高の小説だと(それほどたくさんの小説を読んでいないのにもかかわらず)思っていた。

今回流し読みしてみると、やはり面白い。能にまつわる芸事の名人に関する物語(貴種流離譚?)で、たしかに子どもの僕はこういうものが好みだった。芥川と泉鏡花との文芸の天才同士のエピソードにもひどく魅かれていたくらいだから。

ただ、びっくりしたのはストーリーの細部だけでなく、文章の一つ一つまでよく覚えていたことだ。社会人になってからの40年間で何度も読み返したような記憶はないから、学生時代よっぽど打ち込んだ読み方をしていたのだろう。

高野聖』は『歌行燈』とならんで泉鏡花の代表作だから、当時も読んでいたはずだが、あまりいいとは思わなかった。そうすると細部もまるで覚えていない。ただ今回読むと、意外に面白かった。

『歌行燈』はストーリーは軽快で面白いが、人物造形は類型的で深みはない。ヒロインの女性の虐待されたエピソードも可哀そうすぎる。『高野聖』は、主人公の僧が、若い時の姿も、語り手となった晩年の姿もどちらも魅力的だ。仏道が一般に重んじられていた時代の雰囲気が好ましい。山中の女性との妖艶なやりとりの魅力は子どもの僕にはとてもわからなかっただろう。

ところで、読書会に参加する以上は、自分独自の読みというのが欲しいところだ。法律学でいうところの少数有力説のような意見が出せると、議論も盛り上がるだろう。

今回は短い作品だからどうかと思ったが、主宰者からの課題に沿って考えると、うまく少数派となりそうな、しかし説得力のある解釈を作れそうだ。ポイントは、山中に暮らす婦人の存在をどうとらえるかということだ。

一般的には、作中の人物による解釈のとおりに、旅人の男たちを弄んで動物に変えてしまうような恐ろしい妖女というように見るだろう。修行僧は危うく難を逃れたのだと。

ところが前後の経緯から類推すると、彼女はもともと思いやりをもった女性で、集落を滅ぼした山の神によって山中に隔離されて、近づく男たちは山の神の嫉妬によって動物に変身させられると見るべきだろう。女性が山中に残るのは身体の不自由な夫の面倒と故郷の供養のためではないかと。

手前味噌でいえば、この解釈は、自然とその中に潜む神威の存在に敏感だった昔の人々の視点に立たなければ、気づくことのできない読みのような気がする。