大井川通信

大井川あたりの事ども

『だるまちゃんとかまどんちゃん』 加古里子 2018

加古里子(1926-)が50年にわたって書き継いでいるだるまちゃんシリーズの最新作3冊の内の一つ。僕自身の幼児期にはまだ書かれていなかったが、息子たち二人はまちがいなくお世話になった。

だるまちゃんの不思議な友達は、火の守り神「かまど神」をモチーフにしたかまどんちゃん。だるまちゃんは、隣町の商店街のうらの空き地で、女の子たちのままごと遊びにいれてもらう。「ござ」のすみっこに座ったかまどんちゃんに美味しい食べ物をつくってもらうが、その時「なべやさん」から火事が出て、かまどんちゃんの活躍で火を消すことができた。大人たちがお礼を言おうとすると、かまどんちゃんは恥ずかしいのか隠れてしまう。

傘屋や染物屋や鍋屋が並ぶ商店街の様子も、その空き地にゴザを敷いてママゴトをする女の子たちの姿も、戦前からせいぜい昭和30年代くらいまでの時代を反映しているようだ。意図してそうしているのではないだろうが、90歳を超えた加古さんは、現代の読み手の幼児たちの実際の生活などおかまいなしに、自分の感覚で、だるまちゃんの世界を造形する。それでいいのだと思うし、それがすがすがしくもある。

僕の同世代で早世したコラムニストのナンシー関(1962-2002)が、晩年、といってもまだ30代だったけれども、だいたいこんな事を言っていたのが印象に残っている。以前は、自分が感じたり考えたりすることが、時代の中心にあることを疑っていなかったが、それがズレてきたのを感じると。

時間の感覚がズレていく、というのは(村瀬孝生さんがお年寄りの呆けに関して言う通りに)人間にとってごく自然な過程なのだと思う。僕が書くものも、若い人が読めば、ずいぶんと古臭い文体や感覚や話題に思われるだろう。しかし、最新、最先端の時間だけがすばらしいわけでも、それだけで世界が成り立っているわけでもない。自分がもつ時間を手探りで押し広げていく以外に、人が生きる術はないのだと思う。