大井川通信

大井川あたりの事ども

日本住宅政策三本柱

住宅の歴史に関する本を読んでいたら、戦後の住宅政策に三本柱というものがあるのを知った。敗戦による住宅不足を解消するために、1950年代の前半に相次いで打ち出された政策だ。

1950年(昭和25年)の住宅金融公庫法による、住宅ローンでの「公庫住宅」。1951年(昭和26年)の公営住宅法に基づく、低所得者向けの「公営住宅」。1955年(昭和30年)に誕生した日本住宅公団によって、団地ブームを巻き起こした「公団住宅」。こうした政策に基づく住宅の建設によって、戦後の住宅不足は、1970年前後に量的には解消する。

僕は、1960年代の東京郊外の住宅街で子ども時代を迎えた。住宅不足解消の歴史の真っただ中で生まれ育っていたわけである。だから、これらの歴史の記述は単なる知識ではなく、なるほどと思い当たることばかりだ。

昭和初めに開発された住宅街は、戦後しばらくはまだ空き地ばかりが多かったという。そこに、おそらくは「公庫住宅」を中心とした戸建ての住宅が建てられていったのだろう。僕の家の前の区画は数十戸の市営住宅が並んでいたが、やがて路地のように密集した市内の「公営住宅」は、コンクリートの集合住宅に建て替えられた。

住宅街の区画の外の畑地に巨大な「公団住宅」が建設されたのは、僕が幼児の頃だというから1960年代前半のことだろう。玄関の前で遊んでいた僕を、建設現場に向かう労働者たちが連れて行こうとして、母があわてて取り返したという話は何度も聞かされた。

この三本柱の以外にも、大量の従業員を抱える大企業は、リクルートのためにも社宅を建設したと住宅史の本には書いてある。なるほど、これはよくわかる。実家のあった住宅街には、今のように民間のマンションは見当たらず、集合住宅といえば社宅が多かった。それ以外は小規模なアパートがあるくらいだ。

朝日生命や住友火災、ブリジストンの社宅は大きくて、敷地内部の公園スペースを自由に遊び場として使わせてもらっていた。古く開発された住宅街には公的な公園は少なかったのだ。社宅に住む友人には転校による出会いや別れの思い出がある。

これらの社宅も、企業の合理化等によって、いつのまにか民間のマンションなどに変るものが多く、街から姿を消していった。