大井川通信

大井川あたりの事ども

勉強会3周年と転校生の話

友人の吉田さんと3年前の12月に始めた勉強会が丸三年を迎えた。コロナ禍の入院でやむなく開けなかった2回をのぞいては皆勤で、今回が35回目にあたる。

僕は例の通り、ブログから三本の記事をまとめて「馬と機関車」と題して話をする。吉田さんは、仕事がらみで調べた津屋崎とその村社の歴史についてのレポートを解説する。村社の境内に集められた小社や石碑については、僕も地元の大井で調べたことがあるので、次回そのことを報告しようと考える。

いつものように、知人の噂話や生活上のあれこれの愚痴めいた話もするわけだが、たまたま子ども時代の転校生の話になったのが、面白かった。

別府の古い温泉街に生まれ育った吉田さんによると、おそらく親が職をもとめて各地からきた転校生がいたのだが、土地柄、どこからどうしてやってきたなどという詮索はしなかったという。吉田さんは旧遊郭の建物に住んでいたのだが、近所のおばさん同士、本名ではなく源氏名みたいな通称で呼び合ったりしていたため、友達のお母さんの本名が名簿で見てまったく違うのに驚いたことがあったという。虚実が入り混じって、あえて実の部分を取り出したりする野暮のない世界だったのだろう。

一方、僕は、東京郊外の人工的な住宅街で生まれ育ち、一戸建ての住宅の他は、「社宅」がとにかく多かった。少し離れたところには大規模の公団住宅があり、密集した路地が走る都営住宅もあったが、中規模以下の真新しい鉄筋コンクリートの集合住宅は、まちがいなく社宅だった。当時は、民間の賃貸住宅がまだ少なく、終身雇用の大企業にとって人材確保の観点からも社員向けの住宅を確保する必要があったのだ。

ブリジストン朝日生命、住友火災海上といった大企業の看板を掲げた社宅が近所にあって、転校生というとたいていそういう社宅の転勤族の子どもたちだった。転校生たちは、家の経済状況も学力もむしろ地元の子どもたちより高かったような気がする。

今では、吉田さんの故郷の別府浜脇も当時の温泉街は区画整理で消えてしまったという。僕の育った東京国立もすでに社宅は姿を消し、ほとんどは民間のマンションに建て替えられている。観光地も近代化し、大企業もかつての日本的雇用を改めたのだ。

僕たちの思い出の「転校生」も歴史の彼方に姿を消してしまったのか。