大井川通信

大井川あたりの事ども

絵本「笠ぼとけさま」後書き

近所に「笠仏」という地名があるのが気になっていた。

ある時、その土地を歩いていると、道の脇に石材を無造作に寄せて地面をコンクリートで固めてある場所が目に留まった。庚申塔にしては扱いがぞんざいだなと思ってよく見ると、その中に、六角形の石材の六面にうっすら仏さまの姿が彫られているものがある。風化の具合からいってもかなり古いものだろう。その傍らには、大きな丸い笠のような石も立てかけてある。

「笠仏」という地名の由来ではないかと頭をかすめたが、それではあまりにも種明かしがあっけないし、大切な地名の由来にしてはずいぶん無造作な扱いだ。

そのあとしばらくして、川のほとりで犬の散歩をしているご婦人に声をかけると、なんとあの石仏が寄せてある田んぼの持ち主だった。Yさんは昭和8年生まれ。あれは笠仏様だと教えてくれる。雨ごいのお祭りのときだけこの仏様に石の笠をかぶせていたそうで、ふだんは今と同じように笠をおろしていたらしい。

ただ、二十歳の頃に吉武からお嫁に来た頃にはすでにオコモリ(お祭り)はしていなかったが、まだお酒を供えてあった。10年くらい前(聞き取りは2015年5月)に田んぼの前の道を整備で広げたときに、離れて二つあった笠仏様を今のように寄せて、その時最後のオコモリをしたそうだ。笠の石は子どもがいじって危ないから、コンクリートで固定したという。(たしかに仏さまの彫られた石材はもう一つあるが、なぜ二つ目があるのかの理由は聞かなかった)

Yさんの紹介で、大正15年生まれのMさんからも話をうかがうことができた。ここの松の木で雨宿りをしていた馬子と馬が雷に打たれて死んで、石にはその時のひづめの跡が残っているという。雨ごいの話も聞いたことがあるそうで、戦前母親に連れられて、オコモリに出かけた記憶がある。重箱でお煮しめを食べたりしたそうだが、戦後にはオコモリはやらなくなったそうだ。

お二人の話に基づいて、今回の物語をつくることができた。最後のシーンで笠仏様を取り囲む石の神様たちの表情が暗くて恐いのは、妻が現状を見て感じたままに描いたためだろう。実際、人間たちからお参りされることもなくなった神仏は、少し恨みがましい姿に見えるのだ。