大井川通信

大井川あたりの事ども

ポストモダンの時代感覚

吉村昭の『高熱隧道』の読書会に参加した時、僕の読みのポイントは、80年前の近代の暗黒期(戦時中)に遂行されたトンネル工事を題材にして、50年前の近代の充実期(高度成長期)を背景に執筆された作品を、現在のポスト近代の時代に読みあうことの意味を問うことだった。少なくとも、そのことに自覚的に読むことだった。

十数名の参加者のレポートを読んで、あらためて自分の視点を深めることができたので、そのことを書いてみたい。

執筆時の作者のテーマは、明らかに、過酷な自然に立ち向かう、技術者や人夫たちの労働の実相を描くことだ。正負両面において、近代的な人間の栄光であり宿命であるような「労働」を、まるごと描きとることが目指されていたのだと思う。しかし、この作者のテーマに共感的な感想は、僕自身のレポートも含めて、一つもなかった。

工事のありかたを批判したり、工事の細部に興味を持ったりすることはあっても、自然を克服する「労働」というモチーフ自体を大きく受けとめる感性が、僕たちからは、すっかり抜け落ちてしまっているのだ。それはロマンチックであるとか、言葉遊びであるとかという感想もでたが、それは僕の感覚でもあった。

僕自身の精神の古層を掘り起こすと、こうした難工事のおかげで、今の便利な暮らしが成り立っている、という感謝の感覚をかろうじて取り出すことができる。お米はお百姓さんが一生懸命作ったものだから一粒も残してはいけない、という教えの次くらいに古い地層にそれはある。

実際のところ、電気、水道、交通などのインフラストラクチャーのおかげで、都市的な便利な生活が成り立っているわけで、その根底を支えているもろもろの仕事に対して感謝の気持ちをもつことは、近代人ならばごく自然な感覚のはずである。しかし、現在、そういう感覚のルートは見事に遮断されてしまっているのだ。読書会に参加して、改めてそのことに驚いた。

新幹線や高速道路などでトンネルを通るたびに犠牲者に思いをはせるようになった、と感想を書いたのは、ただ一人、僕より年配の女性だけだった。