大井川通信

大井川あたりの事ども

『彼岸過迄』 夏目漱石 1912

読書会の課題で読む。日本文学の中で、漱石村上春樹だけは、ちゃんと読んでおきたいとぼんやり考えていた。前者は、柄谷行人や佐藤泰正先生らの漱石論があるためだし、後者は親しい安部さんが好きだからという理由からだ。

自分の感想を作ったあとで、柄谷の作品論を読むと、やはりさすがだと思った。佐藤先生の作品論は今の僕にはまだ難しい部分がある。 

作品の前半分くらいは退屈で、こんなに漱石ってつまらなかったっけ、と思った。後半とくに「須永の話」あたりが、好き嫌いはともかくとして、漱石の本領発揮という感じである。三角関係の力学と嫉妬の心理分析などは、ねちっこく細かすぎるくらいだけれどもきわめて正確だ。

こんなに地味な話が、新聞小説として成立したのだから、今とはだいぶ違った時代だったのだろう。近代化が進み、知識階級が生まれたけれど、労働市場が完備されてないから仕事にありつけず、消費市場も情報ネットワークも成立していないから、手持ちぶさたでやることがない。

だから好奇心は、目の前の人間(自分の内面や他人の有り様の詮索)に向わざるを得ない。若い知識層や新世代の男女がどんな内面をもっているかだけでも、十分興味深い題材になったのかもしれない。

須永の母親は、夫の浮気によって生まれた市蔵を無理やりに愛そうとするために、実の姪である千代子と結び付けて自分の支配下に置くとともに、一種の復讐を企てたのだと思う。

須永の母親の仕掛けによって、二人は結婚すべく洗脳されているけれど、市蔵は自意識過剰のあまり洗脳が解けかけているし、千代子の方も市蔵の魅力の無さに気づいている。離れられない運命の二人みたいな、叔父の松本による分析は、そもそもの原因である母親のたくらみを無視しているから間違っていると思う。

本文中に、内幸町の叔父(田口のこと)、矢来の叔父(松本のこと)の記述があった。僕の親世代も、赤坂の叔父、永福町の叔母という風に住んでいる地名で親戚を呼んでいたが、そういう習慣は今後まだ生き残っていくのだろうか?