大井川通信

大井川あたりの事ども

カミソリの下

詩歌を読む読書会で、寺山修司の歌集をあつかう。昨年末ベンヤミンからの連想で寺山修司のエッセイを読み返してみたり、競馬のマイブームにより寺山の競馬論に手を出したりしていたところだったので、ベストのタイミングだった。

まずは、ずいぶん昔からもっている集英社文庫の短歌俳句集を読み返してみるが、以前の印象通り、いいと思える作品が少ない。解説で漫画家の竹宮恵子が、短歌は「一番短い寺山さん」だから好きだと書いているが、いい得て妙で、どんなに圧縮されてもそれは寺山ワールドなのだ。

東京と地元とのとてつもない距離。戦死した父と共同体に縛られる母親と親族。敗戦体験と戦後復興期の猥雑さ。それらのイメージが、現実というよりも鋭い虚構として立ち上がり、舞台の上でのように立ち振る舞う。これらは、エッセイや演劇として十分に描かれるもので、枝葉を切り取った短歌ではいかにも短かすぎるのだ。

それでも、印象に残る歌はある。これは、その一つ。

 

床屋にて首剃られいるわれのため遠き倉庫に翳おとす鳥

 

床屋で身動きがとれずにカミソリで首や顔をそってもらう時間は、気を許してしまえば実に気持ちがいいものなのだが、しかしどこか不穏な危機の瞬間でもある。遠い倉庫に影を落として飛ぶ鳥は、不安な運命の象徴だろうか。

僕は、長谷川龍生の名詩「理髪店にて」を思い出した。あの詩では、床屋での顔そりに対比されるイメージは、深海に沈む軍艦だったけれども。

 

 

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