大井川通信

大井川あたりの事ども

『競馬放浪記』 寺山修司 1989

今日は寺山修司(1935-1983)の亡くなった日だから、寺山の競馬の本を読む。寺山の忌日を意識したのは初めて。1983年の5月と言えば、よく覚えている。僕が大学4年生になって東経大の今村ゼミに通い出し、就職活動の足音が聞こえだしてきたころだ。テレビのニュースで寺山の死を知っても、当時の僕には覗きで逮捕された文化人というイメージしかなかった。

今日は、初めの三分の一くらいしか読めなかったが、寺山の競馬エッセイの特徴はよくわかった。競馬に人間の人生や自分の思い入れを重ねる、という方法だ。

ダービー馬という頂点をきわめる馬と同じ日に生まれても、鳴かず飛ばずの馬がいる。ダービー馬の栄光は記憶されても、ハナ差の二着馬の頑張りはすぐに忘れられる。人間だって同じだ、という風に。そうかと思うと、少年の頃憧れていた女優と同じ名前の馬の馬券をつい買い続けて大負けしてしまったあとに、「男を魅きつけておいて破滅させる」点では似ていると負け惜しみをつぶやく。

これらが、40年前以上の競走馬や芸能などの風俗の話題とともに語られるのだが、今はスマホという武器がある。即座にその馬の戦績や女優の顔写真やプロフィールを調べられるのだ。古い時代のエッセイの近づきにくさがいくぶんか解消されるような気がする。

ところで、これは現在の話だが、昨年の天皇賞(春)で、スタート直後に騎手を落馬させてしまい、カラ馬なのに2番手でゴールしたあと、柵を飛び越し損ねてしばらく倒れこんでしまったシルバーソニックという馬がいる。そのあし毛の7歳馬が今年の天皇賞(春)で3着に好走した。

僕なりにカラ馬のリベンジのドラマを目撃したばかりなので、カラ馬をめぐる寺山修司の想像力には驚くしかない。「騎手と馬とがレースの最中にはなればなれになるのは、どこか人生の最中にわかれる男と女のドラマに似ているように思われてならない」とまで言うのだから。