大井川通信

大井川あたりの事ども

伊東忠太と徳永庸

安部正弘氏の手記には、大正10年(1921年)に日本海観戦記念事業を思い立ち、翌年には、建築界の権威伊東忠太博士に設計を依頼したことが記されている。伊東忠太(1867-1954)は、スケールの大きな建築史家、建築家として知られる。明治時代に「建築」という訳語を定着させてのも、伊東忠太と言われている。

本当だろうか。しかしこれは、忠太を紹介する一般書に掲載されている建築作品一覧で、あっけなく確認がとれてしまった。「1922年日本海海戦記念碑(中止)」の記述があったのだ。この記載のとおり、関東大震災による事業の中断によって、忠太の設計は実現することはなかった。

その後の経費の都合と大砲据え付けの追加計画によって、安部正弘氏は、伊東忠太の了解を経て、設計を、忠太の早稲田での教え子でもあった徳永庸らに変更し、最後には正弘氏の希望を加えて「戦艦司令塔型」が完成したのだという。

津屋崎にある日本海海戦紀念碑の来歴を調べる中で、僕は、伊東忠太と徳永庸という二人の建築家に出会った。しかし、この二人には、僕には意外なつながりがあったのだ。

伊東忠太とのつながりは、すぐに思い浮かぶものだ。忠太の代表作の一つは、大震災後東京郊外に移転した一橋大学の兼松講堂で、国立キャンパス全体が、忠太流のデザインで統一されていた。大学は僕の実家から数百メートルの場所にあり、奇怪な妖怪の刻まれた様式建築群が建ちならぶキャンパスが僕の遊び場だったのだ。

徳永庸の足跡を早稲田の図書館で調べる中で、何より驚いたのが、晩年の徳永の住居が国立市にあって、僕がそのあたりの場所を良く知っていたことだった。彼は自邸を「雑花園」と名付け、晩年、内藤多仲(「塔博士」として有名)と今和次郎(「考現学」の提唱者)という二人の恩師を招いている。昭和37年5月6日、僕が国立の実家で生まれて半年ばかりの頃だ。その時の今和次郎の色紙には、略画とともにこんな文句が書かれている。

「楽しみに老若なし 徳永さんの庭にて 今和次郎