大井川通信

大井川あたりの事ども

なぜ同じ話を何度もするのか?(記憶論その1)

ほんの10年くらい前まで、年配の人が平気で同じ話を何度もするのが不思議だった。この話、前に聞いたばかりなのに・・・。非難の気持ちというより、目の前にあるコップがなぜ見えないのだろう、と思うのと同じくらい素朴な疑問だった。いつのまにか、自分も平気で他人に同じ話をするようになると、今度は、むしろ、なぜ誰に何を話したか、なんてピンポイントの記憶が維持できるのか、むしろそちらのほうが不思議に思える。

日常接する一人一人に対して、きちんと区分けされた記憶の箱というものがあって、さらにその箱の中には小さな仕切りがあって、時系列の順番でその人と何を話したか、という記憶をきれいに収めているのだろう。その人の箱を取り出しさえすれば、何を話して何を話してないかは一目瞭然だ。

今の自分を比ゆ的に言うと、その記憶の箱の整理された部屋にボヤ騒ぎがあって、炎があたりをなめたうえに、消火剤や水がかぶせられ、消防士の靴であちこち踏みつけられてしまった状態といえるだろう。まず箱が見つからない。見つかっても、中身がこぼれたり、ほかの箱と混じったりもしている。

えーい面倒くさい。とにかく話したいことを話しちゃえ、ということになるわけだ。しかしまだ多少の羞恥心はあるから、必ず「これは話したことがあるかもしれないけれど」と前置きした上で、相手の表情をうかがいながら、話し続けるか早々に話を切り替えるか判断している。老朽化しても、この身体と精神という家屋から転居するわけにはいかない。家屋の崩壊具合にあわせて、住まい方を変えていくしかない。

原っぱのヒキガエル

実家の庭を、暗くなってから歩いていると、足もとを何か大きな生き物がはねるように横切った。すぐにヒキガエルだと気づいたが、ずいぶん久しぶりの出会いだった。

実家の横に大きな原っぱがあったときには、土地の主のようなヒキガエルがいて、間違えて踏みつけそうになったり、家の中に侵入してきて家族で驚いて追い出したり、当たり前のように隣人として暮らしていた記憶がある。なんとなく、何年も同じヒキガエルが出ていたような気がするのだが、条件さえよければ10年以上生きるというから、小学校時代に原っぱにいた個体は、当時の僕と同い年くらいだったかもしれない。

その雑木林が生えた原っぱも、開発で小さくなり、先年とうとう完全に宅地になってしまった。しかし、実家の庭にいくらかのやぶが残っているので、かろうじて移り住んでいるのだろう。あの頃のヒキガエルの血脈だと思うとうれしい。今の家の近所のため池にはウシガエルがいて、夜中に大きな声で驚かされるが、そういえばヒキガエルは見たことがない。大井川周辺でも、もっと足元に気をつけて歩くことにしよう。

 

老いの過程

僕は、祖父母の記憶がほとんどない。母の田舎の座敷でふとんに寝ている母方の祖父の姿を、ぼんやり思い出すだけだ。あとの三人は、僕が生まれる前に亡くなっている。そのせいかわからないが、お年寄りのことを分かっていない、と自覚することがある。

80代になっても元気に体操やダンスをし、数キロの道のりも苦にしなかった母親が、ここ数年、腰が曲がり、リュウマチを患ったために、日常生活に支障が出てきた。歩くのが大好きな母は、「坂道を元気に歩きたい」となげく。今は足の腫れが引いて、バスを使って駅前までなんとか買い物に行けるが、そういう身体の状態に家族で一喜一憂している。

以前は、街で杖を突いたり補助具を使ったりして、やっとで歩いているお年寄りを見ても、風景の一部みたいで何も感じなかった。彼ら彼女らはもともとそういう人で、これからも同じ状態を不満なく続けていく。そんな風に漠然と思っていた。

しかし、彼らもほんの少し前までは普通に歩けていて、元気な自分を思い描きながら、必死に足を運んでいるのかもしれない。あるいは、衰えのために、街を出歩くのも人生で最後だろうと打ちひしがれているのかもしれない。老いの過程のただ中で、かろうじて踏ん張っている姿だったのだ。

樋井川村から大井村へ

近所の大規模住宅団地で、今、ニュータウンのリノベーションの動きが起きている。先月から毎回ゲストを招いて「郊外暮らしの再成塾」が開催されていて、今月が株式会社樋井川村の村長を名乗る吉浦隆紀さんだった。所有と市場をベースに、おおきなうねりの発火点となっている吉浦さん。おなじく不可視の村を舞台にしながら、「歩く」という無所有、非市場の営みで、いったい何ができるのか。身が引き締まる思い。以下は、二次会での僕の感想コメント。

 

「今回の吉浦さんの話は、衝撃的だった。吉浦さんが、老朽化したマンションを満室にして経済的にペイさせようと知恵を絞るところから出発して、人に喜ばれる空間が生まれ、人々がつながり、それが地域へと波及する様は壮観だ。現状では赤字のテラスの存在も、長期投資の観点から肯定される。そういうクールなビジネスの言葉と、『九州王国』を目指す理念とが、吉浦さんのなかで無理なく両立している。
僕は長く公務員をしているので、理念が空洞化し、人々の営みが空回りしてしまう場面の渦中にいることも多かった。吉浦さんの話を聞くと、本当に大切なもの、必要なものはこんな場面で産まれるのか、という感動すら覚える。
最後に昔話を。かつては市場や所有をひとしなみに悪として、それを超えることに希望を見出す言葉がはびこっていた。しかし多くの犠牲を払って、その言葉は失効する。柴田さんによると、まちづくりの新しい主役は、若い不動産オーナーたちだそうだ。所有を開くことで、人々の主体性やつながりを迎え入れる。新しい希望は、吉浦さんたちの一歩から始まっているのかもしれない」

「秋の祈」高村光太郎 1914

秋は喨喨(りょうりょう)と空に鳴り/空は水色、鳥が飛び/魂いななき/清浄の水こころに流れ/こころ眼をあけ/童子となる

多端紛雑の過去は眼の前に横はり/血脈をわれに送る/秋の日を浴びてわれは静かにありとある此(これ)を見る/地中の営みをみづから祝福し/わが一生の道程を胸せまつて思ひながめ/奮然としていのる/いのる言葉を知らず/涙いでて/光にうたれ/木の葉の散りしくを見/獣(けだもの)の嬉々として奔(はし)るを見/飛ぶ雲と風に吹かれる庭前の草とを見/かくの如き因果歴歴の律を見て/こころは強い恩愛を感じ/又止みがたい責(せめ)を思い/堪へがたく/よろこびとさびしさとおそろしさとに跪(ひざまづ)く/いのる言葉を知らず/ただわれは空を仰いでいのる/空は水色/秋は喨喨と空に鳴る

 

高村光太郎、103年前の秋10月の絶唱。十代で出会って以来、年齢とともに輝きを増す、祈りの詩。今年も暗記をメンテナンスして、人のいない林道で思いっきり暗唱しよう。

そういえば、最近、東京の博物館と美術館で光太郎の彫刻を偶然二つ観た。手と、ナマズ

  

ooigawa1212.hatenablog.com

 

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駄洒落を言ったの誰じゃ(その3)

ある日、近所のため池をのぞいていて、とんでもない発見をした。ため池は、養魚池としても使われていて、色とりどりの鯉が、気持ちよさそうに泳いでいる。しかし、これはとんでもなく矛盾した事態ではないか。

池の鯉・・・イケとコイ・・・行けと来い!?

学生の頃、ダブルバインド理論というものが流行っていて、たしか子育てなどで、日常的に親が相互に矛盾したメッセージを出していると、子どもが統合失調症を発症する原因となるという説だったと思う。

池のふちにたたずんで、僕は二つの指令に二重拘束されて、動けなくなった。

 

「日本の家」展で、家について考える

東京国立近代美術館で、「日本の家」展を見た。海外での展覧会の帰国展ということで、13のテーマ別に事例を取り上げているのは、わかりやすかった。「プロトタイプと大量生産」「閉鎖から解放へ」「家族を批評する」「さまざまな軽さ」「すきまの再構築」等々。展示は、模型が中心で、キャプション、写真、図面、映像等が加わる。球場のグランド部分に住宅を建てて展示場にした衝撃的な写真も展示されていたが、この展覧会自体、一般の入場者には一種の住宅展示場として鑑賞されているのかもしれない。ただし、家、というと身軽に対象化して観察したり、考えたりすることができない自分がいることに気がついた。

僕は、今までに五つの家に住んでいる。生まれた家は誰もが選べない。その後の三つの集合住宅も、仕事上や経済上やむなく住んだりで、自由意志がほとんど介在していなかった。今の家は確かに自分が選んだ戸建てだが、振り返ると「持ち家幻想」に支配されて、経済的・時間的・知識的な制限の中で、選ばされたものだったと感じる。これまた経済的な理由等でメンテナンスも十分ではないし、将来的にどうしていくかも頭がいたい問題だ。家について考えると、どうしてもこうした体感がおおいかぶさってきて、思考の自由を奪う。

僕の周りにも、決して十分な条件がなくても、自分の住処にこだわりをもってデザインしようとしている人はいる。むしろそちらが今は多数派なのかもしれないし、今後のあるべき社会の方向のような気もする。ただし負け惜しみでいえば、住居については(身体と同様)こうした受動性や無力感こそが、人間にとってより本質的なのではないか。人の本質さえ変質を余儀なくされるのが現代なのだろうが。

 

☆台風一過。ふと見上げると、我が家のテレビアンテナの脚が折れて、屋根にぶら下がっている。近所の家はしっかり立っているのに。やれやれ、どうしたものか。

詩集『声と冒険』(岡庭昇 1965)から

午後の乳母車の歌  岡庭昇   

乳母車が走る/やさしいそぶりで増殖しつづける霧を裂き/白いすじを作りながら/まっすぐに走ってゆく/九段坂上をぼくはゆっくり歩く/乳母車が千代田城濠わりの横を走ってゆく/熱っぽい眼、ひらかれようとするくちびる、破れた旗、いくつもの記憶が流れはげしく流れる/乳母車が石段を駆け上る/切りさかれた空/乳母車が車道を横切る/切りさかれたアスファルト/休日の群衆を乳母車がとびこえる/切りさかれた日ざし/乳母車が走る/切りさかれた麹町警察署/ぼくのなかにいくつもの言葉がふくらんでくる/やがて明晰さがぼくを跳ばせるだろう/乳母車が小さくなる/われわれの疲れた視線のむこう  疲れた並木のむこうの青い空からやってきて/乳母車はだるい昼食と広告キャンペーンと静かな生活の中にかけていく/(それはわれわれの義務であったはずのもので)/誰もさえぎることはできない

・・・以下略・・・

 

岡庭昇の処女詩集を初めて手にした。60年代という時代を背景に、都会を走り続ける乳母車の幻想をリズミカルに歌うこの詩が気に入った。

「やがて明晰さがぼくを跳ばせるだろう」という詩句は、70年代の彼の批評家としての飛躍を予告しているようだ。

 

家庭の恐怖

妻は、実の兄との関係があまりよくなかった。それで10年ばかり会っていなかったのだが、先日、突然の訃報があった。通夜と葬儀に出て、いざ出棺の時に、手を合わせて「では、さようなら。来世は私の前に現れないでください」とお祈りして、お別れしたそうだ。

それはひどいね、と僕は苦笑した。そして、冗談で、僕の葬儀の時にもそう言うつもりなんじゃないの、と聞いてみた。

すると、妻は真顔で答える。「もちろん、そうよ」

 

 

住宅街の恐怖

今の街に引っ越して、まだ間もない時だったと思う。住宅の数も少なくて、今より周辺もだいぶさみしかった。夜中、子どもを残して夫婦で車を出した。翌日の用事にそなえて、買い物とガソリンの給油に行ったと記憶している。当時3歳の長男は寝付いていたし、同居の義母もおり、しっかり鍵も締めて出た。

目当てのスタンドが閉まっていて、予想より時間がかかったのは確かだった。ようやく家に近づいて、住宅街の下のため池の近くまで来たときだった。自動車のライトが、人気のない池沿いの道を照らすと、突然小さな子どもの姿が現れた。子どもは寝間着を着ているのだが、しっかりと前を見て、大きなサンダルをはいて、目的があるみたいにすたすたと歩いている。呆然と見送ってから、それが我が子であることに気づいた。

もう少し先の車道まで行っていたら、車にひかれていたかもしれない。そうでなくとも、どんな事故に巻き込まれたかわからないし、仮に無事でも、そこで見つけていなければ、自分たちが帰宅後に大変なパニックになっていただろう。

あとで子どもに聞くと、ブランコに乗りたかったという。確かにその方向には、隣の住宅街の児童公園がある。しかし、自分一人で鍵をあけ、怖いはずの真っ黒な夜に出て、いったい何に導かれてあんなに一心に歩いていたのか。今でもよくわからない。