大井川通信

大井川あたりの事ども

「日本の家」展で、家について考える

東京国立近代美術館で、「日本の家」展を見た。海外での展覧会の帰国展ということで、13のテーマ別に事例を取り上げているのは、わかりやすかった。「プロトタイプと大量生産」「閉鎖から解放へ」「家族を批評する」「さまざまな軽さ」「すきまの再構築」等々。展示は、模型が中心で、キャプション、写真、図面、映像等が加わる。球場のグランド部分に住宅を建てて展示場にした衝撃的な写真も展示されていたが、この展覧会自体、一般の入場者には一種の住宅展示場として鑑賞されているのかもしれない。ただし、家、というと身軽に対象化して観察したり、考えたりすることができない自分がいることに気がついた。

僕は、今までに五つの家に住んでいる。生まれた家は誰もが選べない。その後の三つの集合住宅も、仕事上や経済上やむなく住んだりで、自由意志がほとんど介在していなかった。今の家は確かに自分が選んだ戸建てだが、振り返ると「持ち家幻想」に支配されて、経済的・時間的・知識的な制限の中で、選ばされたものだったと感じる。これまた経済的な理由等でメンテナンスも十分ではないし、将来的にどうしていくかも頭がいたい問題だ。家について考えると、どうしてもこうした体感がおおいかぶさってきて、思考の自由を奪う。

僕の周りにも、決して十分な条件がなくても、自分の住処にこだわりをもってデザインしようとしている人はいる。むしろそちらが今は多数派なのかもしれないし、今後のあるべき社会の方向のような気もする。ただし負け惜しみでいえば、住居については(身体と同様)こうした受動性や無力感こそが、人間にとってより本質的なのではないか。人の本質さえ変質を余儀なくされるのが現代なのだろうが。

 

☆台風一過。ふと見上げると、我が家のテレビアンテナの脚が折れて、屋根にぶら下がっている。近所の家はしっかり立っているのに。やれやれ、どうしたものか。