大井川通信

大井川あたりの事ども

現代教養文庫のラインナップ

現代教養文庫は一風変わった文庫だった。文学と古典が中心だった老舗の文庫に対して、新書に入るような入門書や、単行本のような評論集、翻訳もの、変わり種の小説など、ごった煮のようなラインナップだった。社会思想社の文庫だから、社会科学系もそろっていたけれど、人文系での詩集,詩論、文芸評論、心理学も充実していて、すいぶんお世話になった。表題もキャッチ-で、耳に残っているものが多い。「言葉の錬金術泉鏡花」とか「民主主義は工場の門前で立ち止まる」などなど。この文庫でなくては出会えなかっただろう大切な書き手も何人かいる。

ただ、この一冊というと、ペレリマンの『面白い物理学』だ。現代教養文庫には自然科学の入門書も入っていて、当時のソビエトの学者の著書の翻訳だったりするのが、60年代の状況を表していて面白い。わかりやすい力学や錯覚の解説と異国風の独特の挿絵や図解に夢中になった。姉の友人だった近所に住む板橋さんからのまた貸しで手に取ったのだと思う。たしか小学校高学年くらいに読んだから、この本を通して物理学という未知の教科にあこがれをもった。まだ公害も原発事故もそこまで顕在化していない時代だったので、科学技術への崇敬の念は大きかったと思う。小学校の日記には、技師になりたいとか書いたりもしている。ところが実際に中学や高校で学んでみると、数式ばかりで少しもイメージ通りの面白さがないのでガッカリした記憶がある。

現代教養文庫は1951年の創刊で、2002年の廃刊だから戦後50年の歴史を持っている。好きな文庫だから廃刊は残念だった。ただやはり、東西冷戦のいかにも戦後的な教養の時代の雰囲気を身にまとっていたので、あのラインナップをかかえたまま今でも生き残っている姿はちょっと想像できない。

『やまとことばの人類学』 荒木博之 1983(中動態その6)

この本も『中動態の世界』への不満から、積読の蔵書から手にとったもの。その点でいえば、日本語が、ヨーロッパの言語と同様に能動対受動を根本的な対立としているかのような妄言を、完膚なきまでにたたきつぶしている。しかも、きわめて具体的に、そして平易に。

たとえば、日本語の助動詞「れる、られる」は、学校文法で「自発」「受身」「可能」「尊敬」の四つの意味を持つことを教えられる。このことを振り返るだけでも、我々が能動と受動とを、単純に対立させていないことに気付けるはずだ。「私は教えられる」という文は、「私は教えることが出来る」という可能の意味と、「私は(他から)教えられる」という受身の意味とを持っている。筆者は、本来の意味は「自発」であり、自然展開に価値を置く態度がそこにあるという。自然展開が主で、それが可能や受身や尊敬のニュアンスが付加されるというわけだ。言い換えれば、日本語は「中動態」的な価値観がビルトインされている言語なのである。さらには、「出来る」という可能の言葉が、そもそもオデキが出来るという(出て来る)という自然展開を語源としているというダメ押しがされる。いや、全編、明晰なダメ押しだらけなのだ。

中動態うんぬんは別にして、もっと早く読んでおくべきだったと後悔する。本文が200頁にみたない薄い選書なのだが、この本にあることは、今後何度も立ち戻って考えないといけないという気持ちになった。そう考えるポイントをメモしておこう。

60年代に登場した廣松渉の哲学の中心テーゼは「物的世界観から事的世界観へ」だった。今はまちづくりのかかわる人でさえ、地域の「人、モノ、コト」を活用しましょうとさらっと口にする。マーケティングの世界でも、モノ消費からコト消費へ、というスローガンが流行だ。いずれも物(モノ)とは、単なる物体か財物のことを示しているといっていい。しかし、著者は、「もののわかった人」「ものごころがつく」「ものしり」という日常語を取り上げて、それがむしろ「恒常不変の神の原理=世間一般の法則」を表すことを説得力をもって描き出す。一方、コトの方は、「非原理的・一回性・可変」の言葉・事を表す。日本人はむしろ、生成変転するコトの世界に過剰ともいえるほど敏感に反応してきたという。こと日本語による思想理解の観点からすると、不変vs.可変と読むべき対立を単なる物体vs.事象ととらえるのでは、いかにも皮相だ。

筆者は、コト的な世界を言語の呪力に頼って一つ一つ処理していこうとする日本人の態度を示すものとして、ことわざや標語、かけ声や囃子、「さようなら」という別れの挨拶、電車の発車ベルや教室の号令にまで理解を広げていこうとする。いわば微分化されたコトに対して、日本人はそのつど言葉で手当てしないと気が済まないのだろう。

ところで哲学者の中島義道は、論壇にデビューした当時、無意味に思える標語や放送を揶揄して『うるさい日本の私』という本を書いて快哉を浴びた。ヨーロッパを尺度にして日本の現状を体当たりで否定していく様を、僕も面白く読んだ気がする。中島のその後の本は優れたものが多いと思うが、しかしこの筆者の本を読むと、中島の主張が自分の好悪を日本社会にぶつけているだけで、まったく哲学的でも思索的でもないことに、今さらながら気づいた。

すくなくとも今の僕には、驚くべき本だ。こういう本に出会えるうちは、まだまだ読書を続けるべきなのだろう。

ツグミが来た日

先月末からしつこいめまいに苦しめられているのと、冷え込みがきつくなったこともあって、外歩きがすっかりご無沙汰になってしまった。大井川歩きの名がすたる。

昼休み、おそるおそる職場の近くの林を歩いたのだが、ヒヨドリのせわしない鳴き声の合間に、プチプチプチという連続破裂音みたいなツグミの声を、この秋初めて聞くことができた。

あるいは、プラスチックの下敷きを激しく扇いだときになる、キュンキュンキュンをという音が一番近いかもしれない。鳥を見始めたばかりの頃は、冬の初めの林から聞こえる、このちょっと無機的で神経質な鳴き声がしばらく正体不明だった。

ツグミ類はみなおくびょうで、似たような鳴き声で飛び去って、すぐに身を隠してしまう。アカハラシロハラ、それにマミチャジナイも姿を見せるが、今の時期林で群れをなしているのは、たいていツグミだ。

やがて冬枯れの開けた田畑で、ひとりぼっちで歩きまわり、胸を張って立ち止まる姿を見かけるようになるだろう。温かくなって渡りの時期になると、いつの間にか仲間と集まるのは、ジョウビタキと一緒だったと思う。

僕も早くめまいを治さなくては。

 

詩人村野四郎のこと

鹿は 森のはずれの/夕日の中に じっと立っていた/彼は知っていた/小さな額が狙われているのを/けれども 彼に/どうすることが出来ただろう/彼は すんなり立って/村の方を見ていた/生きる時間が黄金のように光る/彼の棲家である/大きい森の夜を背景として (「鹿」村野四郎 )

 

村野四郎(1901~1975)は、僕の子どもの頃にすでに教科書に載っている詩の大家だった。大学生になって思潮社の「現代詩文庫」などを読むようになると、古臭い前時代の詩人のような気がして、素直に好きといえないようになった。しかし、その後の長い時間の中で時々でも読み続けられたのは、本当に好きな村野の詩だった。

今年になって、仕事の会議で同席した人と話していたら、村野四郎が好きだという。府中市にある記念館の手持ちのパンフをプレゼントしたら、とても喜んでくれて丁寧な礼状までいただいた。村野は東京多摩地区で僕の隣町の出身だ。

先月、読書会のメンバーで旧知のTさんが、村野のファンであって、詩集『亡羊記』を英訳出版したばかりであることを知った。彼は英語で詩や小説を発表する、現役の詩人である。「詩論がまたいいんです」「ノイエ・ザッハリッヒカイト(新即物主義)ですよね」

アマゾンで手に入れると、見開きのページに横書きで日本語の原詩と英訳が並んで読める、小ぶりの瀟洒なペーパーバックだ。アンソロジーでなく、実際の詩集の翻訳なのもいい。好きなものを好きだと、野蛮なまでに押しとおすこと。僕には欠けがちな情熱だけれども、何かに手を届かすのはそれだけだろうと、今頃になって気づくことが多くなった。

 

虫の目、鳥の目、魚の目

虫の目と鳥の目の対比を始めて知ったのは、高校生のとき読んだ小田実の対談本だったと思う。小田は石原慎太郎に言う、お前は鳥の目だけれども、オレは虫の目でいくよ。それ以来、虫の目と鳥の目は、ミクロとマクロに一般化されて、議論には必要十分な武器であると信じて疑っていなかった。

先日、著名な経済人の講演を聞いて、ビジネスの世界では、魚の目が追加されていることを初めて知った。たしかに海流や潮流にさらされている魚の目は、「流れを読む」比喩としてふさわしい。なるほど、現場にいくら密着しても、また全体的な社会経済の知識をため込んでも、市場の動向を知らなければ倒産の憂き目にあうだろう。

社会哲学的に言えば、近代は「人間の目」と人間が奪い取った「神の目」との二刀流で済んだけれども、リキッドモダニティたるポスト近代においては、流動をとらえる「資本の目」が最重要になるということだろうか。

哲学者廣松渉の少年時代

本屋に行ったら、岩波文庫の新刊の棚に、廣松渉の『世界の共同主観的存在構造』が並んでいた。初めての文庫化ではないが、岩波文庫に入るのは古典として登録されたようでまた格別だ。廣松渉の逝去から、もう20数年が経つ。僕自身は、廣松さんの話を直接聞いたのは講演会での二回だけだが、不思議な因縁があって、廣松さんの少年期の聞き取りをすることができた。

2009年の3月だから、10年近く前のことだ。その時の職場の上司が、柳川出身だったので、飲み会の席の苦し紛れの世間話で廣松渉の名前を出したのだと思う。すると、上司が同郷の偉人として知っていたのだ。それをきっかけに上司の家にお伺いして、廣松を直接知る上司の母親からエピソードを聞いたり、上司のお兄さんに案内されて、廣松が住んだ家の跡や、廣松が伝習館高校時代、塾を開いていたお寺なども訪ねたりした。以下は、その時のメモ。

 

上司のお母さんは、昭和9年生まれ。蒲池小学校で廣松渉と同じ学年だった。当時は男女別のクラスで、長身の「渉さん」の姿はよく覚えていたが、口を聞いたことはなかったという。ただ渉少年が、カバンも教科書も持たずに学校に通い、それでも先生をやり込めるほど勉強ができたというエピソードを教えてくれた。

渉少年のお母さんはきれいな人で、外出の時は着物姿で歩いていたという。廣松家が戦後困窮して養鶏業に手を出していたときには、卵を売りに来ていた。妹の「るみさん」や、廣松の親友だった廣松俊隆さんの名前も覚えていた。

廣松渉の住んでいた家は、街道から細い路地を百メートルばかり入った所にあった。レンガ造の家の脇のほの暗い小道は、渉少年が歩いた当時の面影を残しているだろうが、家はもう壊されて、周囲の草地のどこにあったかわからなかった。入り組んでやぶにおおわれていたというクリークの堀も、護岸整備されて明るく生まれ変わっていた。近所に残る廣松姓の家はいわゆる馬喰(ばくろう)が多くて、柵の中でしきりに馬が歩きまわっている。

廣松渉は死の半年前に故郷を訪ねており、蒲池駅での記念写真が残っている。実際に見ると、小さな駅舎の先にホームが二本あるだけの殺風景な駅だが、この土地を拠点に、10代の濃密な時間を過ごした廣松渉には、特別な思い出のあるプラットホームだったのかもしれない。

 

『小さい林業で稼ぐコツ』農文協編 2017

農家の仕事なら、ふだん目にするから、なんとなく想像できる。林業となると、見当もつかなかったが、近所の里山に出入りするようになると、植林された林や、伐倒の跡など、林業の痕跡を意外に身近に見ることができた。しかし、今、山が荒れているとよく耳にするし、林業では儲からないのではないか。そんな時に、図書館の新着コーナーで手にした本。

本書は、「自伐型林業」への入門書だ。今は木材価格は下がっているが、人に任せずに、自分で切って運び出し出荷まですれば、そこそこの利益が得られる。薪にして売ったり、間伐材バイオマス発電のチップ用で売ったりもできるが、造材技術(枝を払い寸法を測り「玉切り」する)を身につけ「丸太」にすれば高値が狙える。一斉に伐採する「皆伐」と違い、工夫をこらしながらの「択伐」で経営の手腕が発揮できるし、何より自分の山を手入れしてきれいにする喜びがあるという。しかしこのためには、軽トラが入れる作業道の整備が不可欠とのことだが、僕の里山歩きは、この作業道のお世話になっていたのだ。

この本をながめている時、偶然、遠方の「原木市場」に見学に行くことになった。集荷された大量の丸太が、選木機にかけられて、直径と品質ごとに仕分けられた後、セリの単位で積み上げられている。近頃は中国等からの需要もあるそうだ。単価が1㎥あたりであること、大径木がかえって安くなることなど様々なことを教えられる。林業が具体的に動いているイメージが得られたのはありがたかった。

この本は、農家と林家の兼業はもちろん、中山間地域を担う多分野の業種(例えば福祉)の参入を期待してしめくくられている。地域の自立の一手段ととらえる視点がおもしろかった。

 

 

こころって困った宝だ (原田一言詩抄)

三枚目は、一番弱々しい言葉だ。そのせいかどこか頼りない書体で書かれている。しかし、僕はこの一枚が、一番原田さんらしい言葉だと思う。自分のこころを前にして、困り顔で立ちすくむ姿が目に浮かぶ。心は素晴らしいものであると宣伝される。しかし、本当にそうか。弱虫で、やきもち焼きで、こらえしょうがなく、すぐに人を攻撃する。人間は、それでもそんな心を宝として抱きしめざるをえない。

ここでも岸田唯幻論を補助線として考えよう。岸田秀は、人間を本能が壊れた動物と定義する。人間は生き延びるために、本能の代替物として、自我や文化をでっちあげる。それはしょせんは偽物の本能だから、どうしても行き過ぎや不足を招いてしまう。言葉や芸術や経済成長を生み出す一方、いじめや自死や戦争や自然破壊をまぬかれない。心や文化のすばらしさは、おろかさと表裏一体なのだ。

 

僕は、次に原田さんに店で会ったときに、三枚のカードを机上に並べながら、以上のような解釈を熱弁した。この三枚は、世界の生成の秘密から、世界内を生きる個人の真理、社会や文化の真理を尽くしていると。

黙って聞いていた原田さんは、特に何も感想を言わなかった。ただ、三枚目の言葉はうんと若い時に書いた言葉だと教えてくれた。

原田さんが、車の誘導や草刈りの仕事を引き受けている幼稚園は、ある宗教組織が運営している。彼らは、浄土真宗の在家の聞法グループで、寺院や大教団とは独立に、実に誠実に経典研究と信仰を貫いている。しかし、僕は、祭壇の前の彼らのかしこまった研究や信仰よりも、駐車場の片隅で汗を流す原田さんの方に、法や真理のはるかに深い理解があることに気付いている。

身近なところで言えば、そのグループを率いる園長さんあたりが、原田さんと言葉を交わしながら、ふと彼我の法理解の差を自覚して、雷に打たれたように絶句する、なんて場面があれば面白いと思う。しかし、おそらくそんなことは起きたりはしない。残念ながら原田さんは無名で理解者を持たないままこの世を去っていくだろうが、そういう運命はきっとありふれたものなのだ。

まさに「人知れず私」だねと、二人で笑った。

独りを知る そこにみんな (原田一言詩抄)

ここでは、一見「人知れず私」とはまったく反対のことが書かれている。しかしここに矛盾を見る必要はない。まずは人知れない〈私〉として世界に登場したあとの自分は、つまり「世界内存在」としてある自分は、世間知や宗教や科学がいうように、ありふれた共通項としての一種の模造品にすぎない。一個の人体を研究することが人類一般の真理を明らかにする。それどころか、かつてマルクスが喝破したように、個人は「社会関係の結節点・総体」であるから、個人の観察が社会全体の真理を明らかにしうる。岸田秀は、フロイトの方法を駆使して、自分の神経症の症状とそれをもたらした母親との私的な関係を徹底して見つめることだけから、日本近代史の展開から時間や空間の発生まで説明可能な岸田唯幻論を作り上げた。

「独りを知る」ことは「そこにみんな」を見ることだ。これは、この世界内においては、もっとも普遍的な知恵なのかもしれない。原田さんの認識もそこに届いている。しかし、これには原田さんの個性はあまり感じられない。そのためか、数十枚おかれた短冊やカードの中に、この言葉は三枚も書かれていた。

 

人知れず 私 (原田一言詩抄)

大井村の賢人原田さんは、荒れ果てた民家を借りて、何年もかかってほとんど一人で改修して、古民家カフェの体裁を整えた。僕が四年ほど前にたまたま入店したのは、そのリニューアルオープン日だった。早朝の新聞配達で店の運営を支えていた原田さんは、幼稚園の手伝いに職を変えたので、昼間や夕方に訪ねても留守が多くなった。原田さんが仲間に任せているカフェも休みがちだ。

先日、暗くなってから店に入ったが、原田さんはいない。店の隅には、小さく切った和紙やカードに墨で字が書かれたものが、ホコリをかぶって置かれている。隣にはお布施箱が置かれていて、自分で決めた値を払ったらいいことになっている。

言い忘れたが、原田さんは宗教家であり、書家であり、詩人である。めったに口にしないが宗教はその道の権威といえる師匠につくなど、10代の頃から遍歴を重ねている。書は友人の書家に習ったものだ。詩は独学のようだが若いころから書いている。サラリーマンや販売の仕事をしたあとに、理想のムラをつくるという夢を実現しようと、50代半ばを過ぎてからこの土地にやってきたのだ。それから10年間、少数の仲間とこつこつムラ作りに励んでいる。しかし大井村では、ちょっと怪しげな、人のいい流れ者といったところだろう。

僕はあらためて原田さんの「一言詩」を走り読みして、三枚を選び出した。読むほどにその三枚が動かしがたく思えた。三つの句で、世界の総体をカバーしているといっていい。原田さんが帰ってこないので、僕はお布施を払って無人の店を出た。

その一枚目が「人知れず私」。世間も宗教も哲学も科学も、人間などみな共通の性質をもつものだとタカをくくっている。共通項である人間を立派なモノととるか、愚劣なモノとみるか、精妙なモノと観察するかの違いにすぎない。たしかに自分などは、職場の同僚にも、家族にも、知れ渡った存在だ。何か特別な存在であると思いあがるのはとんでもない錯覚と嘲笑されても仕方ないだろう。

しかし本当にそうなのか。ある時、突然世界に投げ込まれて、この世界を開き体験する中心として生き続け、いつか突然世界の外へと撤収される、この私。この世界の唯一の主役として、「天上天下唯我独尊」である他ない私。永井均が〈私〉と表記する自分は、徹底して孤独で、「人知れず」あるほかないのだ。