三枚目は、一番弱々しい言葉だ。そのせいかどこか頼りない書体で書かれている。しかし、僕はこの一枚が、一番原田さんらしい言葉だと思う。自分のこころを前にして、困り顔で立ちすくむ姿が目に浮かぶ。心は素晴らしいものであると宣伝される。しかし、本当にそうか。弱虫で、やきもち焼きで、こらえしょうがなく、すぐに人を攻撃する。人間は、それでもそんな心を宝として抱きしめざるをえない。
ここでも岸田唯幻論を補助線として考えよう。岸田秀は、人間を本能が壊れた動物と定義する。人間は生き延びるために、本能の代替物として、自我や文化をでっちあげる。それはしょせんは偽物の本能だから、どうしても行き過ぎや不足を招いてしまう。言葉や芸術や経済成長を生み出す一方、いじめや自死や戦争や自然破壊をまぬかれない。心や文化のすばらしさは、おろかさと表裏一体なのだ。
僕は、次に原田さんに店で会ったときに、三枚のカードを机上に並べながら、以上のような解釈を熱弁した。この三枚は、世界の生成の秘密から、世界内を生きる個人の真理、社会や文化の真理を尽くしていると。
黙って聞いていた原田さんは、特に何も感想を言わなかった。ただ、三枚目の言葉はうんと若い時に書いた言葉だと教えてくれた。
原田さんが、車の誘導や草刈りの仕事を引き受けている幼稚園は、ある宗教組織が運営している。彼らは、浄土真宗の在家の聞法グループで、寺院や大教団とは独立に、実に誠実に経典研究と信仰を貫いている。しかし、僕は、祭壇の前の彼らのかしこまった研究や信仰よりも、駐車場の片隅で汗を流す原田さんの方に、法や真理のはるかに深い理解があることに気付いている。
身近なところで言えば、そのグループを率いる園長さんあたりが、原田さんと言葉を交わしながら、ふと彼我の法理解の差を自覚して、雷に打たれたように絶句する、なんて場面があれば面白いと思う。しかし、おそらくそんなことは起きたりはしない。残念ながら原田さんは無名で理解者を持たないままこの世を去っていくだろうが、そういう運命はきっとありふれたものなのだ。
まさに「人知れず私」だねと、二人で笑った。