大井川通信

大井川あたりの事ども

『ビブリオ漫画文庫 』山田英夫編 2017

ちくま文庫所収の本をめぐる漫画アンソロジー。本をテーマにした漫画を集めると、結果として古本屋を舞台にしたものが多くなるのはなぜだろう。

先日、一箱古本市というものに初めて出店した。主催者が出店が少なくて困っているというので、実際は一箱ではなく四箱、150冊を蔵書から選んで出した。基準は、手放しても惜しくないものに絞ったのだが、それだけだと見映えが悪いので、多少いい本を混ぜておいた。売れたのは、そのいい本の方ばかりだった。しかし、惜しいとは思えず、むしろもっと良いものを出しておけばよかったという不思議な感覚を味わえた。

幼児を連れた感じのよい若い夫婦がやってきて、永井均の哲学絵本と中川季枝子の童話を買って帰ってゆく。彼らの暮らしの中に自分の本が溶け込んでいく様を思い描いて、とても幸せな気持ちになれたのだ。たいていは不愛想な古本屋の店主たちの内面にも、こんな感情の揺らぎがあったのかと想像してしまう。

たしかに古書をめぐっては、こんなセンチメンタルな感情が引き起こされやすい。人と人とをとりもつ従順な媒介として本を描く作品が多いのはそのためだろう。しかし、本には、どこか得体のしれないところがある。水木しげるは、何世紀にもわたって人を喰い続ける古本の妖怪の話、楳図かずおは、愛するあまり自分の妻の皮を剥いで一冊の本にしてしまった男の話、諸星大二郎は、古本マニアの怨念が作り上げた本だらけの地獄の話を描いて、他の作家たちの感傷とは一線を画している。彼らの破格の想像力が、書物というモノの悪魔的な本質をとらえたといえるかもしれない。

『西田幾多郎』 永井均 2006 (中動態その5)

少し前に『中動態の世界』を読んだときに、能動と受動の対立を当然の前提として議論を始めていたのがひどく乱暴な気がした。哲学はこの辺をもっと繊細にあつかっていたはずと思って、とりあえず心当たりを再読したのがこの本だ。

この本では、日本語的把握と英語的把握の対立を議論の入り口にしている。川端康成の『雪国』の有名な冒頭「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」を取り上げて、日本語においては、知覚する主体も、究極的には存在しないという。一方、英語的表現は、経験の主体は常に世界の内部に存在する個人であるという事実を言語表現の基礎に織り込んでいる、と説明する。それが日本語話者には、「無用な自己主張」に聞こえるのだ、と。言い換えれば、能動と受動の対立をも「無用な自己主張」と感じてしまう、ということだろう。『中動態の世界』は、日本語のリアリティ(に基づく思考)を切り捨てた議論に見えてくる。

永井均は、ここから西田哲学にまっすぐに切り込んでいく。永井の問いの側から見ると、西田の議論はたしかに了解しやすい。「場所」も「無」も、永井哲学の〈私〉として読めばいいのだ。ところで、そういう本筋の議論とは別に、永井の本音めいた発言が面白いので、いくつか引用してみる。

>哲学の難解な表現の多くはそうなのだが、通常の言語では表現できないほど自明ことを表現している(P24)

>これらは‥‥概念的探究の鋤(すき)が打ち込めないほど、あまりにも単純で卑近な事実を指し示そうとしている(P80)

>現在の日本の哲学には、追いかけと咀嚼と紹介以外には何もない。ほんの十年前、二十年前に盛んに論じられた問題さえ、時熟を待たずに流行おくれになって忘れられ、次々と新しい動向が紹介されていくだけである(P76)

僕は20年前に『〈子ども〉のための哲学』で衝撃を受けてから、その前後の論文集は読んでみたが、それ以降の著作については、難解さが増した印象で読みこなせなかった。やっかいだが、楽しみな宿題を残している感じだ。

 

お饅頭のリレー

初任給が出たとき、次男は卒業した特別支援学校に、お菓子をもってあいさつに行った。もちろん親がアドバイスして、学校まで車で送り迎えもしてあげたのだが。学校の職員室と、寮の職員室との二つ分の菓子折りをもって、次男は、ひさしぶりの先生と照れくさそうに話していた。

そのあとしばらくして、就職でお世話になった先生を夫婦で訪ねた。その先生は息子の卒業と同時に、遠方の学校に移っていたので、ドライブがてらあいさつにうかがったのだ。「おかあさん、心配なことがあったら、いつでもいいから電話してください」と携帯を教えてくれて、将来どんなことでも母校が相談にのると請け合うような仕事熱心な先生だから、精神面が少し不安定な妻には本当にありがたい存在だった。次男が正社員で就職できたのも、おそらくその先生の奔走のおかげだと思う。

門脇の倉庫に、イワツバメが営巣している長閑な学校だった。イワツバメの巣は、とっくりの形をして天井に張り付いている。〇〇君が初任給で買ってくれたお菓子です、とその先生の手元にも、例のお菓子の一つが届けられたそうだ。学校の教師はとやかく言われがちな職業だけれども、そんな純粋な気持ちのかけらを人知れずリレーするようなことは、先生にしかできないだろう。

 

旺文社文庫の箱

だいぶ前に発行をやめてしまったが、学生時代には、旺文社文庫が好きだった。文庫には珍しく箱入りの時代もあって、当時は古本屋の棚でそれを見かけることができた。箱がなくなったあとのカバーも、他の文庫とは違って一冊ごとに違うデザインで装丁されて明るい印象だった。

受験参考書の老舗だったためだろうか、各ページごとに注釈が加えられて、解説のページが圧倒的に充実していた。作品の鑑賞やエッセイ、作者の年譜のページもあった。僕の評論好きは、文庫本解説を読むことから始まったから、多分に旺文社文庫のおかげである。もう一つの特徴は、詩歌の文庫が多く入っていたこと。それも新潮文庫のようにただ作品を並べただけではなく、ページの下欄に解説が入っていたので、初心者には近づきやすかった。今でも、朔太郎や伊東静雄など近代詩の有名どころが10冊ばかり手元にあって、ときどきはめくっている。

この一冊、を挙げるとすれば、『タダの人の思想から-小田実対談集』1978年刊。思想面ではかなり奥手な子どもだったけれど、この本は高校時代に購入して、石原慎太郎との歯に衣を着せない対談をどきどきして読んだ記憶がある。

調べると、創刊は1965年で廃刊が1987年だから、今年で廃刊して30年になる。どうりで古本屋でもあまり見かけなくなっているわけだ。

 

新潮文庫の棚

もう20年近く前になるだろうか、この街の国道沿いの書店でのことだ。そこはレンタルビデオ店を併設していたので、家族でよく利用していた。その書店が閉店して、子ども向けの体操教室に建て替わってからは、ファミレスやコンビニなどがあるそのショッピングモール自体に行くこともまれになってしまった。

店内には文庫本の並んだ棚が何列かある。年配の白髪交じりの書店員が、若い店員に向かって、こんなふうに熱心に教えている場面に出くわした。「新潮文庫は、文庫の王様みたいなものだから、正面の一番目立つ棚に並べているんだよ」 郊外型のチェーン店だったので、そんな書店員のこだわりが意外に思えて、耳に残っているのだろう。

子どもの時分、地元の増田書店で、父親が小説の題名の面白さを教えてくれたことがあった。『夜明け前』や『破戒』や『暗夜行路』について、背表紙を指さしながら説明してくれたのも、確か新潮文庫の棚の前だったような気がする。

先月から、文学書を読む読書会に参加している。ふだんは小説を手に取ることはあまりないのだが、久しぶりに新潮文庫を手にして読書にふけっている。サマセット・モーム『月と六ペンス』。

 

 

同姓同名の会

僕の名前はそれほど珍しいものではないと思うのだが、氏名の組み合わせでいうと、全国に多くいるわけではないようだ。ネットの検索をかけても、同姓同名の人は、せいぜい三、四人しかでてこない。

そのうちの一人は、もうだいぶ以前に亡くなっている人だ。大正2年の朝鮮総督府の官報に、裁判所書記として任用された記録が残っている。その17年前の明治29年に台湾総督府の記録で、郵便電信通訳生兼書記として任用されている同姓同名の人もおそらく同一人物だろうと思う。海外の植民地で下級官吏としての人生を送った人なのだろう。僕もたまたま同じような職業だから、こんな小さな記録にしか残らない仕事にも、それなりの苦労や様々な喜怒哀楽がつきまとったことを想像できる。

名前など、偶然につけられた記号にすぎない、といえばいえる。同姓同名の人とも、直接には何のかかわりもないはずである。しかし、僕という人間の独自性を端的に示すのは、何十万回も呼ばれ続けているこの名前以外にはない、というのも事実だろう。後の諸々の属性は、他と似たり寄ったりの平凡なものに過ぎない。彼にしても、この事情は同じはずだ。だから、名前という回路で混線が生じて、およそ100年ぶりに召喚されてしまったのだ。「今頃何の用ですか俺に」と眠い目をこすっているかもしれない。僕もあなたと同じ〇〇△△ですといえば、きっと驚いて許してくれるはずだ。

こんなことを考えていたら、偶然新聞記事で、同姓同名の会というのが話題になっていることを知った。田中宏和という名前の人たちが集まって、同姓同名が一堂に会するギネス記録を作ろうとしたらしい。記事からは彼等の親密さが想像できて、ちょっとうらやましい気がした。

鳥たちの冬支度

今朝、通勤の道で、ジョウビタキのオスとメスがにらみ合っている場面に出合った。オスは、車道の隅にうずくまって動かない。メスの方が、さかんに場所を変えたり、近づいたりして挑発する。付近は、広い原っぱの空き地があるから、どちらも譲れないナワバリ候補地なのだろう。 

事情を知らない人が見たら、求愛のふるまいに見えるかもしれない。しかし、厳しい冬を乗り切るための必死の戦いなのだ。「異文化」理解は難しい。あらためて間近く見ると、オスは歌舞伎のような派手なメイク、メスはスッピンのように地味だ。勝負の行方を見届けることはできなかったが、後でこの辺りで見かける方が勝者なのだろう。

カルガモも、暖かいうちは少数で子育てする姿を見かけたが、今は川の河口付近で大きな群れになっている。最近、川沿いの稲刈りの終わった田に、群がってエサをあさる姿を初めて見て、まるでミヤマガラスのようだと驚いた。

季節は、鳥たちが備える冬に向かっていく。

 

メニエール症候群

歩き出しても平衡感覚がおかしくて、まっすぐ前にすすめない。踏み下ろした床がぐわんぐわんと沈むような感じがする。久しぶりに始まったなと思う。職場のソファーに横になっても、むかむかと気持ちがわるい。頭痛ではないが、後頭部が少ししびれる感じで耳鳴りがはげしくなる。目を開ければ、きっと天井が回っているだろう。しかしそれを見るといっそう気分が悪くなりそうなので、目をつむっておく。こういうときはなかなか寝付けない。気づくと、あたりは暗くなって、時計の針も一時間はすすんだようだ。気分もいくらかよくなっていた。

十何年か以前、徹夜が続くような仕事の時に最初の症状がでた。それからしばらくは月に一回くらいは似たような発作が出ていた。やがて頻度は減ったが、一度症状がひどくて自宅で救急車を呼んだことがあった。そのあとに耳鼻咽喉科で薬を処方してもらい、それ以来、ずっと収まっていたのだ。

朝、出勤前の次男から、お父さんに眼鏡をかけた背の「短い」上司はいるか、と聞かれる。夢の中で、父がハンバーガーショップで働いていて、そういう風貌の上司に怒られていたのだそうだ。職場で体調を崩したと聞いて、そんな姿を想像したのだろう。ふだんは憎まれ口を聞いているけれども、少しは心配してくれているようで、うれしかった。

クマバチの意志

近所のため池で、クマバチを見かける。秋に見ることは珍しいような気がして、図鑑で調べると、それそろ活動期間の終わりの時期だった。

昔図鑑で見るクマバチの姿は、大型のハチにしてはまるっこくて胸の黄色と黒いおしりもかわいらしく、いかにも狂暴そうなスズメバチと違って好きだった。ただし実物を見る機会はそれほど多くはなかったのかもしれない。我が家には、藤見を楽しむという習慣がなかったのだ。転居して、藤の花を見るようになると、いつもそこにクマバチがいるのが気になった。ミツバチの仲間だから刺さないという知識だけはもっていたが、やはり少しは怖かった。ところが藤の花は、クマバチでないと花粉の媒介ができない構造だそうだから、実は手入れに不可欠の職人さんみたいなものだったのだ。

大井村の賢人原田さんが、朝晩幼稚園に手伝いに行っていて、原っぱで駐車場の誘導をしている。そこを住処とするクマバチがいるらしく、縄張りにはいってくる他のハチやときにはツバメさえ追い回す姿に、「意志のかたまり」と評して感嘆していたのを思い出した。今回調べてみると、実は排撃のためではなく、クマバチのメスかどうかを確認するために、つまり求愛のために、あらゆる飛ぶものを追い掛け回すらしい。それもまた、一つの意志であることにはかわりないか。

『中動態の世界』(國分功一郎 2017)を読む(その4)

ずいぶん乱暴な感想を書いてきたが、最後にさらに身勝手な連想をつけくわえたい。

著者が、能動/中動という、行為の二類型を時間をさかのぼって取り出したのは刺激的だった。著者は、この対立概念は基本的に抑圧されたままだと結論づける。しかし、それでは中動態の全面化という現代の事態を説明できない。この二類型は、おそらく近代において全く新たな形で概念化されているはずである。

マルクス資本論の冒頭で、労働の二重性を論じている。資本制において労働は、商品の使用価値をつくる「具体的有用労働」と、価値を生み出す「抽象的人間労働」との二つの側面を持つ。前者の労働は、具体的な商品の形を自分の外側に生み出すことで、自己の痕跡を消す。一方、後者の労働は、自分の中の労働価値というものを商品の中に転移させるのみならず、新たな価値の増殖と流動への発火点となる。この労働の二つの側面は、能動/中動という行為の二類型そのままではないだろうか。すでに80年代に社会哲学者の今村仁司は、マルクス経済学内部でしか通じないこの専門用語を、対象化労働/非対象化労働と読み替えて、社会を支える基礎的な行為として概念化を図っている。

おそらく中動態という言葉を復活させるだけでは、現代的な問題を考える手立てにはならない。肝心なのはその一歩先なのだ。その意味で、東浩紀の『観光客の哲学』は、見事な思考の手本を示していると思う。 この本で東は、能動でも受動でもない「観光客」の気まぐれなふるまいに、グローバリズムナショナリズムに閉ざされた世界を組み替えていく現実的な可能性を認めている。