大井川通信

大井川あたりの事ども

ヴラマンクの落日

20年ばかり前、松岡美術館の収蔵品によるフランス絵画展で、ヴラマンク(1876-1958)の絵を何枚か見た。その中に、とても気に入った一枚があった。夕闇が迫る林のむこうで、赤い太陽が沈みかけている。夕陽はかろうじて林の中にも届き、うねうねと伸びる木々の枝のあちこちに夕焼けをしたたらせている。

ブラマンクは、どんよりと重苦しい空の下の雪景色の絵が有名だが、そのため余計その鮮やかな赤が印象に残ったのかもしれない。何年かあとに、その絵と再会するために、東京の松岡美術館を訪ねたりもした。

10年前のヴラマンク展は、大分で見た。家族旅行の途中で駆け足で見ざるをえなかったが、好きな絵と似たモチーフの作品もあって満足できた記憶がある。今回10年ぶりのヴラマンク展が地元であったので、かなり楽しみにしていた。ワクワクしながら館内を見て歩いたのだが、気持ちがピークに達する前に、あっけなく展示が終わってしまったような感じだった。期待が大きすぎたのかと思い、カタログを比べてみると、やはり前回の展示に軍配があがる。

今回は、比較的タッチがおとなしい雪景色の絵が多かった気がする。枚数が少ない初期のフォービズム時代の明るく明快な風景画に力負けしているような印象さえ受けた。同じ雪景色でも、泥を含んでぬかるんだ雪をぶちまけたような、激しい筆触の絵の方に魅力を感じる。街路や屋根になでつけられた白い雪が、あの林の絵の夕陽のしたたりを連想させるからかもしれない。

 

ターナーの水鳥

知り合いの教師からこんな話を聞いたことがある。大学の付属小学校に勤務していたとき、ベテラン教員から教えられた話だという。若いころ、一生懸命に準備して研究授業を行った。その講評の際、いきなり授業の中身でなく、校庭にどんな鳥が来ているか、と尋ねられて、面食らったそうだ。そんなこともわからずに理科を教えているのかとたしなめられたが、その出来事がきっかけで教師としてモノの見方が広がったそうだ。この話は、鳥好きの僕には、まさにわが意を得たものだった。

ターナー(1775-1851)の風景画展を見た。近景、中景、遠景をきちっと描き分けた王道の風景画がメインで、ターナーという名前で勝手にイメージしていた、それらをごちゃごちゃにしたような絵(例えば機関車のもうもうたる煙で)はほとんどなくて、少しがっかりだった。

ただ大きな風景画にはやはり迫力がある。遠景の城はかすんで、中景のゆったりした斜面には人々の姿がちらほら見える。そして画面三分の一くらいの近景は池で占められているが、左手前には陸地から水に入ろうとしているカモの親子の姿が克明に描かれている。大きな空間を前にして、しかし目前にある一見無意味なモノの細部をとらえる眼は、やはり新鮮だったのだろうと思う。

また別の絵では、遠景に荒れ模様の空と海。中景には荒れ狂う波に翻弄される釣り船の劇的な姿。しかし近景の砂浜の左手前では、ひとまとまりの石が、そこだけ静物画のように丁寧にスケッチされているのだ。

 

霜柱とぬかるみ

東京都心で、48年ぶりに零下4度を記録したそうで、霜柱の写真が新聞に出ていた。多摩地区の府中市では、なんと零下8度だったそうだ。地球温暖化ヒートアイランド現象の影響だろうか、夏はかつてよりも熱くなり、冬は以前ほど寒くなくなった体感がある。冬に東京の実家に戻っても、霜柱をほとんど見なくなった気がするし、まして今住んでいる地域では見た記憶すらない。

そもそも霜柱とはなんだろうか。気温が零度より下がると、水分を含んだ地表の土が凍りつく。地中の水分が、凍った地面が引き起こす毛細管現象で吸い上げられて地表に達すると、そこで凍ることを繰り返して霜柱が成長する。関東ローム層の土は粒子の大きさが適当で、霜柱ができやすいという。地表と地中の温度差や、地中の水分量、地表の土の状態が関係した、かなり複雑な現象だったのだ。

子どもの頃、実家の庭は、冬場には霜柱がふつうにできていた。霜柱は、日中に溶けるとびちょびちょにぬかるんでしまい、地表の土を荒らす。そのため、父親が、余った木材で簡易な渡り廊下のようなものを作り、それを玄関まで敷いていた記憶がある。当時はなんとも思わなかったが、一種の生活の知恵で、父親も今の自分よりはしっかりDIYが出来ていたのだと感心する。

明朝まで寒波は続き、この地方でも氷点下の冷え込みだそうだ。早起きして霜柱を探しに行こうと思う。

 

ゲンゴロウの躍動

ゲンゴロウというと、開発によって生息できる環境が少なくなり絶滅寸前になったひ弱な昆虫、というイメージがあるかもしれない。しかし、ハイイロゲンゴロウだけは、別の種と思えるほどのたくましさがある。

まず、その泳ぎ方だ。舵の壊れた暴走モーターボートのように激しく左右に旋回しながら、かなりの長距離を泳ぐ。オタマジャクシや小魚にも遜色ない逃げ足である。活力の源泉である食欲もすさまじく、一緒に飼っていたシマゲンゴロウを平らげてしまった。多少の水質や環境の悪化も平気で、他の生き物が見当たらない田んぼでも泳いでいるし、都会の公園の池で暮らしていたりする。

何より驚くのは、その飛翔能力だ。水槽から逃亡されて気づいたのだが、彼らは他のゲンゴロウのように陸に上がることなく、水面から直接飛び立てる。まるで水上飛行機だ。ただし機能優先のためか、黄土色に黒い斑点がまばらにある保護色風の色合いで、外見の魅力は乏しい。また活力が有り余っているのか、夜中に水槽の中で鳴くような音をたてたりもする。まさに水陸空自在の、全環境型最強昆虫といっていい。

そんなわけで、大井川周辺の田んぼでは、今でも夏にはハイイロゲンゴロウの元気な姿を見ることができる。ゲンゴロウ界が、ますますハイイロ一強となっていくのは、仕方ないとはいえ寂しい気もするが。

 

ゲンゴロウの誘惑

今の住宅団地に引っ越して20年になる。はじめはJRの駅やバイパスの方ばかり向いて暮らしていた。高台から反対に降りた側にある、里山のふもとの小さな集落のことなどまったく気にかけていなかった。そういう住民が今でもほとんどだろう。僕がこの土地に目を向け、やがて大井川歩きなどという酔狂なことを始めるようになったのは、ある出来事がきっかけだった。

そこにはダムから小川が流れ、田んぼが広がっており、神社とお寺があって、古い農家もちらほら見える。この景色を目にしているうちに、ここにゲンゴロウがいるのではないか、とひらめいたのだ。まさか、いやひょっとすると、いやいやそんなことはないはずだが・・考え始めるとたまらず、田んぼをのぞきに飛び出していた。

小学生の頃、谷保の水田と多摩川によく遊びに出かけた。ヤゴやフナやザリガニなどを捕って遊んだが、なにより思い出深いのは、小型のゲンゴロウだ。田んぼの脇の水路の泥をザルで救い上げると、泥といっしょに、体長が1センチばかりで背中にいろいろな模様が入ったゲンゴロウをつかまえることができた。あこがれの大型の種類はいなかったが、二本の後ろ足をオールのように使って泳ぐ姿はゲンゴロウそのものだ。

あのゲンゴロウに出会えるんじゃないか。僕はその一夏、休みの日には、あぜ道で田んぼの中を覗き込んで過ごした。そうしてまず、たくさんのオタマジャクシに紛れて、水面を右に左に暴走するハイイロゲンゴロウを見つけた時には、躍り上がった。やがて、昔捕まえた記憶のある、きれいな縞模様のシマゲンゴロウやコシマゲンゴロウにも運よく巡り会えた。生まれて初めてヒーターやポンプ付の水槽を用意して、冬まで飼育して観察した。

飽きっぽい僕は、ゲンゴロウへの情熱をその年で使い果たしてしまったのだろう。ただあの夏のおかげで、大井川周辺が僕のフィールドになったのはまちがいない。やがて鳥を追いかけたり神仏のホコラや炭坑跡を探したりすることに興味は移ったが、今でも水をはった田んぼをのぞくと、ワクワクする気持ちがよみがえってくる。

 

「かっちぇて」という場所

 片山健太さんと薫子さんのご夫婦が主催する「かっちぇて」(長崎弁で仲間に入れて、という意味)というたまり場について、ワークショップで二人から話を聞くことができた。

「かっちぇて」は、長崎の坂の街にある古民家で、ボロボロな状態で彼らが買い取って、改修しながら自宅として使い、「子どものたまり場・大人のはなす場」として開放している。子どもたちとのリフォーム工事からはじめて、参加費無料、申込不要、プログラム・タイムスケジュールなし、年齢制限・学区制限なし、障碍の有無を問わないという方針で運営しているそうだ。

この場所自体も面白いと思ったが、何よりこころ魅かれたのは、活動していく上での、二人の考え方やふるまい方のていねいさだ。たとえば、健太さんの地元長崎で物件を探すときに、二人は半年間足で探したという。結局見つからずにネットに頼って今の建物を見つけたそうだが。また地域に等身大の姿で自分たちを受け入れてもらうために、新聞の取材は断っているそうだ。マスコミのかっこうのネタだろうし、普通なら喜んで取材に応じるような気がする。二人のふるまいには、よく考えられた自主ルールがあるみたいだ。

二人は、長野県で山村留学を主催するNPOの職員として出会ったそうだが、そこで学んだことと、そこでは出来なかったことを、ていねいに今の活動につなげていることが見て取れる。どんなにいい事業でも高額な参加費を払える恵まれた子どもたちしか参加できない。そうでない子どもたちに届かせるために、「かっちぇて」を子どもが通える街中に開いて、参加費や申込を不要としたという。

子どもたちは何もない場所でも自分たちの遊びをみつけ、自分たちなりにルールを作って、今現在の活動にのめりこむ。二人も、長崎の坂の街の空き家で新しい活動を始めて、徹底して話し合いながら、自分たちがやりたいことを実現している。この年末年始も、「今やっていることは本当に自分たちのやりたいことなのか」という話し合いをしたそうだ。

どの会で話してもお金(経済)と保険(安全)について質問が多いとのことだが、今回もそんな話もあった。それはどこか、子どもに対するわけしりな大人の紋切り型の声かけにも聞こえる。支援の必要な子どもに届いているのか、という質問もあったけれども、なにより「かっちぇて」という場所を必要としているのは、大人の二人なのだろうと思えた。

大人と子どもの区別を絶対化したうえで、子どもについてだけあれこれ注文をつけることで事態はかわらないだろう。現状がまずいというなら、まず自分から動かないといけない。何もない場所で、新しい行為を始めているのか。率直に話し合って、自分たちのルールを作っているのか。しっかりと考えて、人とていねいにかかわっているのか。二人からは、そんな問いを突き付けられた気がする。

『富江』シリーズ 伊藤潤二 1987-2000

ホラー漫画といえば、長い間楳図かずお(1936~)以外考えられなかったが、近ごろ伊藤潤二(1963~)の良さを知るようになった。『富江』は、以前に映画をビデオで何本か見て印象に残っていたが、原作を初めて読んでみた。伊藤が楳図かずお賞に応募してデビューを飾った短編をベースに、長く書き継いだシリーズもので、作者の思い入れが強いのだろう。主人公の富江のキャラクターと基本的な能力が共通するが、彼女が様々な場所に出没して奇怪な事件を巻き起こす。

すぐれたホラーは、非日常的、非現実的なストーリーによって、読み手の感情を恐怖で揺さぶるだけではなく、人間の存在の隠された本質をあぶり出す。富江の物語を読んで、日ごろ漠然と感じていたことを、あらためて考えさせられた。

富江は、圧倒的な美少女として描かれる。富江は高慢で凶悪な性格だが、その特別な美しさは、男たちに彼女を殺したいという欲望を抱かせる。ところが彼女の肉体は異常な再生能力をもっていて、肉体の一片からでも元の姿を再生して増殖する。それぞれの富江の性格はまったく元のままで、互いを認めずに殺し合いまでするが、富江にかかわる人間は、彼女に挑む者を含めてすべて破滅を免れない。

これは極端な設定だが、人間文化のある実相をえぐり出しているともいえるだろう。美人(美少女)は特別な存在とみなされる。特別であるがゆえに、肉体を離れた観念として存在し続けることができる。と同時に、より自然に近い荒々しい存在として力をふるい、血や暴力を招いてしまう。

たとえば樋口一葉の名作『にごりえ』では、特別な美人である酌婦のお力に入れあげて身を持ち崩した源七によって、無理心中という悲劇が起こされる。しかしお力は、物語の主人公として読み継がれることで命を永らえることになる。ただこれは、まだ身分や階級の差が歴然としていた明治の物語だ。

個人の尊厳や平等が建前として根付いた現代社会においては、美人という文化的存在の置き所が難しくなっている。富江の美しくもグロテスクな姿は、現代における美の問題を象徴しているのかもしれない。

ヒラトモ様のご褒美

少し遅くなったけれども、天気がいいので、ヒラトモ様の里山に初詣に行く。山道は、両側から竹が倒れていて、少し歩きづらくなっている。道が途切れ、きつい山の斜面を登っているとき、ひらひら歩く襟巻のようなイタチとすれちがう。

ヒラトモ様の石のホコラは、初めて訪れた四年前に比べると、お参りする人が途絶えたのか、落ち葉も吹き込んで荒れてしまった感じだ。軍手をもってきていたので、ホコラの掃除をして、昨年の梅酒を下げて、日本酒の小瓶をお供えする。ホコラの周りに散乱した大小の木の根をきれいに並べて立てかけておく。これは、戦時中ヒラトモ様が戦勝祈願の神様だった時に、お参りの人たちが木剣を献上していた伝統を引き継ぐ大切なものだ。日本の近代を里山の上から見つめてきたこの神様のことは、きちんと残しておきたいとあらためて思う。誰もいない山頂の木々に響き渡るように、「ヒラトモ様、大井の里の人々の暮らしをお守りください」と大きな声をお祈りしてから、山を降りる。

帰りに、ヒラトモさんの登り口の脇で畑をしている吉田さんの家に寄る。四年前お参りの時にたまたま声をかけて知り合いになってからのお付き合いだ。ご主人(ひろちゃん)の子ども時代のエピソードを夫婦で手作り絵本にして届けたこともある。ひろちゃんは、ちょうど玄界灘で釣ってきた魚のうろこをとっているところで、大きなクロを二匹と手作りキムチをお土産に持たせてくれた。まるで、ヒラトモ様からのご褒美みたいなお魚を下げて、家に戻る。

シロハラの事故死

施設のガラスに激突して、そのまま死んでしまったシロハラのオスを見つけた。ふだん遠くからうかがうだけの鳥を、間近に観察できるのはこんな機会しかない。生活ぶりも、見た目もとても地味な印象の鳥なのだが、実際には、色合いのグラデーションが繊細でとても美しい。頭部は濃いグレーで、目の回りには黄色いアイリングがある。背中から前羽にかけて広がる黄土色が意外にきれいだが、羽の大部分はつややかな黒褐色である。そしてお腹は、名前の由来である白。また、飛び立つ時目立つのだが、尾羽の両サイドだけ白い羽根が鮮やかだ。身体の長さと体重を図ってから、埋葬した。22センチで、85グラム。

ふと思い出して手帳を見返すと、四年前の今の時期にも、同じようにガラスにぶつかったシロハラを見つけた記録があった。自然の運行は残酷なくらい、正確に同じことを繰り返す。その時、人間の営みも、同じことの繰り返しだなと驚いたのは、すっかり忘れていたが、その時のメモにこんな数字が残されていたからだった。

22センチ。80グラム。

博多一家四人殺害事件(事件の現場3)

大井川周辺の聞き取りでも、何らかの事件や事故に関連して、その供養のためにまつられた石仏やホコラの話が何件もでてくる。旅の人間が行き倒れになった場所に不動さんをまつったとか、殺人のたたりから子孫を守るための地蔵とか、雷に打たれて人が亡くなった供養でまつった笠仏などの話だ。民話集にあるようなストーリーだが、どれも正式に記録などされてはいなくて、かろうじて少数の人が伝え聞いているものだ。

少し前に、神々は外部への情報端末ではないか、と書いたが、神仏が人工的に作った異界とのアクセスポイントであるなら、事件の現場とは、日常に無理やりこじ開けられた外部への穴であり、異界へ通じる亀裂だろう。その穴や亀裂にとりあえずフタをして、定期的な祭礼でメンテナンスするために神仏という装置が利用されたわけである。

ところが現代では、たいていの事故や事件の現場は何の処置もされずに、亀裂や穴はそのまま放置される。何もせずとも、絶えず更新される流動化した日常が、難なくその場所を修復してしまうと考えているのかもしれない。しかし、本当にそうだろうか。

ネット上にあげられた事件現場のレポートを見てみると、同じ現場に何度も足を運んで写真を撮っている人がいる。悪趣味だと思う人が多いかもしれないが、放置されたままの日常の亀裂にひきつけられて、その場所を記録せずにはいられないという心理の根底には、昔の人が事件や事故を手厚く供養したのと同じ思いがあるような気がする。実際に事件の現場を訪れて感じるのは、その土地が大きく均衡を欠いているにもかかわらず、バランスを回復する方途がないという感覚だ。

表題の事件は、2003年に、中国人留学生3人によって、夫婦と二人の幼い子どもが自宅で殺害されて博多湾に遺棄されたという事件である。交通量の多い国道3号から一本入っただけの路地の小さな敷地の二階屋は、事件後まもなく取り壊されて平地となっていたが、最近隣の区画と合わせてアパートに建て替えられて、すでに入居者がいるようだ。勝手な思い込みだろうが、この土地が負った傷はあまりに深く、うかつに目を離すことを許さないような力がある。