大井川通信

大井川あたりの事ども

向山洋一氏の教師修行

向山洋一さん(1943-)は、教育技術法則化運動で名高い教師で、たくさんの著書を持っている。彼が新任当時、我流で始めた教師修行について書いているものを読んで、その内容が強く印象に残った。優秀な教師ならば、そのことの意味が即座にわかるのだろうが、部外者にはとても「異様な」ふるまいに思えるのだ。

子どもの帰った教室で、その日の教室での会話と出来事の全てを思い出す、というのがそれだ。はじめは、印象的なところは思い出せるが、日常的なあれこれは思い出せず、今日の出来事も昨日や一昨日の出来事とごっちゃになっていた。社会科の時に15名くらい発言したとは思い出せても、それが14名なのか、16名なのかはっきりしない。

「僕にとって長い時間の末、子供たちの発言がくっきり思い出せるようになってきた。その時の子どもの表情も周りにいる子の表情も見えるようになってきた。それは思い浮かぶのではなく、向こうから押し寄せてくるのだった。鮮明に像が浮かび上がり、それと関連して場面が次々と浮かび、そして全体の姿がくっきりと映し出されるのであった」(『教師修行10年』)

他のどの職業でも、こんな「修行」が必要なものはない。教育の部外者は、この「異様さ」をよく心にとめておくべきだと思う。さらにかんじんなのは、向山さん自身、この修行はあくまで基礎的、入門的なものという位置づけで、多くの著書で触れるのは、もっと実用的な技術や法則という点だ。

一対一での顧客や上司との会話の要点を記憶してメモしておくようなことは、どの職業でも求められることだろう。しかし、たくさんの子どもたちの発言や様子をもれなくその場面ごと記憶しておく、ということは、はるかにそれを上回ることだ。

この修行のエピソードは、教育現場の「一者対多数のコミュニケーション」がいかに困難であるか、「聖徳太子的な異能」の獲得がいかに大変なものかをよく示していると思う。