学校の教員と接するようになって、驚くのはその技量の差である。まさにプロと呼べるような先生がいると同時に、素人同然の授業しかできないベテラン教員もいる。本来はすべて専門家であるはずの教員の世界の中で、「プロ教師」などという呼び名がリアリティを持つことが、この事態をあらわしている。
通常の職業で、これだけ技量の差がある職業はまれな気がする。それはなぜなのか。これは、彼らの仕事内容を偏見なくみればすぐにわかる。
教師の仕事が、1者(教師)対多数(子どもたち)のコミュニケーションという、特別に難しいコミュニケーションをあつかっているためだ。一般の仕事の場面では、多数の人間も組織化されており、一対一のコミュニケーションがベースになるように組み立てられている。少なくとも、部下が一時に話しかけてきて困ることはないだろう。
歴史上の偉人聖徳太子には、一時に10人の人の話を聞くことができたという逸話がある。普通の人間にはない塔別な能力だからこそ、伝説となっているのだろう。だとしたら、数十人の子どもと日常的にコミュニケーションをとる教師は、聖徳太子以上の異能者ということになる。
僕は、教育の世界を外から見て、この認識を持つことが現在の教育問題を理解する上でのカギであることに気づいた。社会の側は、一対一のコミュニケーションベースでしか教師の仕事を想像できないから、それを簡単に考えがちで、いったん問題が生じると、「なぜいじめを発見できなかったのか」などと安易に非難する。
一方、教育の側も、この点に十分自覚的でない。聖徳太子以上の能力が要求される職場環境で、それに何とか対応できたプロ教師と、そうでない普通の先生との技量の差が大きくでるのは当然だ。教育大学や、教育行政の世界で、このコミュニケーション環境への対応を主眼においた研究や教育が行われているわけではない。
昨日紹介した友人の大学講師の試みは、このポイントを正確についたものだと思う。おそらく彼は、ともすれば一方通行に(つまり疑似一対一のコミュニケーションベースに)陥りがちな大学の講義を、小学校の教室で培った様々な技法を駆使して、一体多数のコミュニケーションの場として活性化させているはずだ。その上で、受講者に批評コメントを求め、それに基づく議論を提起することで、この特別なコミュニケーションのあり方を自覚し、それをわが物とするように促す。
いったんコミュニケーションをメタの立場から俯瞰する視線を獲得すれば、おそらく日常のあらゆる場面が、訓練や気づきの場となるだろう。それは、一者対多数という過酷なコミュニケーション環境に対応するための基礎を養うはずだ。