大井川通信

大井川あたりの事ども

檸檬忌に梶井を読む

忌日には、一年に一回その人のことを振り返ることができるという効用がある。

というわけで、梶井基次郎(1901-1932)の89回目の忌日に、彼の本を手に取った。二年ばかり前、読書会で薄い短編集を読んだので、それに収録されていないものを選んで読む。

二年前は、梶井は思ったよりは良くない、「檸檬」(1925)がなかったら名前が残ったのだろうか、などとひどいことを考えていたが、今回は逆に、そんなに悪くないと思った。

梶井がこだわるのは、微妙な感覚のずれや錯覚だ。そこにだけ退屈な日常をこえた興奮や陶酔を感じることができる。しかしそれが錯覚である以上、一時的なものであって虚しく消えてしまうのが常だ。

「路上」(1925)を読むと、彼は高台から街を見下ろしたり、いつもと違う近道を歩いたりすることを偏愛しているのがわかる。高台からの俯瞰は、街の別次元の姿を見せてくれるし、新しい道は慣れ親しんだ街を異国のように錯覚させるかもしれない。

梶井はその錯覚や陶酔を、作品の中で病的にまで突き詰めているが、それは街歩き(大井川歩き)の楽しみでもある。今になって、僕はこのところないくらい大井川歩きに打ち込んでいる。それが梶井の作品への共感を引き起こしたのかもしれない。

「筧(かけい)の話」(1928)は、おそらく教科書か副読本で読んだものだろう。細かいフレーズまでよく覚えている。小林秀雄張りの難解なエッセイの趣はあるが、しかし聴覚の錯覚を描いたものに過ぎず、「魅惑」と「絶望」との例の二律背反を反復するのみである。