大井川通信

大井川あたりの事ども

晩年の高村光太郎

3月も、重要な作家や詩人の忌日を無為に見送ってしまった。ゴーゴリ(3月4日)、小林秀雄(3月10日)、とりわけ吉本隆明の横超忌(3月16日)と梶井基次郎檸檬忌(3月28日)は、ここ数年追悼が根付いてきただけに残念だった。

今日は、高村光太郎の忌日。朝から意識していたので、文庫本をもって外出した。一冊読み切るのは、僕の消化力からして到底無理だ。近頃覚えたのは、興味のあるセクションだけを読むという技法だ。これなら僕にもできる。そこで、今回は、以前から気になっていた戦争詩と「暗愚小伝」の諸編だけに目を通すことにした。

高村光太郎は高名な詩人として、戦争中、かなり本気で戦意高揚のための詩を多く書いている。そのことを反省し、戦後山にこもった光太郎が、間違いにいたる自身の半生を詩にしたのが「暗愚小伝」の連作である。このくらいの知識は僕も持っていた。

(あとから調べてみると、若い頃に愛読した旺文社文庫版のアンソロジーが、本編には「暗愚小伝」を載せずに、巻末で「暗愚小伝」の諸編を引用しつつ光太郎の生涯を解説していたのだ。さすが旺文社文庫という配慮だ)

作品だけをたどると、そこには真摯な振り返りと誠実な思索があるので、当時の時代状況のリアルさとそこを生き抜いた人々の切実さを感じとることはできる。

しかし、西洋礼賛と脱日本から、日本への目覚めと戦争詩、反省と人類愛という大きすぎる曲折には、やはり、なんだかな、という思いを禁じ得ない。

「山林」という詩の一部を引用してみよう。

 

「私はいま山林にゐる。/生来の離群性はなほりさうもないが、/生活は却(かえっ)て解放された。/村落社会に根をおろして/世界と村落とをやがて結びつける気だ/強烈な土の魅力は私を捉へ/撃壌の民のこころを今は知つた。/美は天然にみちみちて/人を養ひ人をすくふ。」

「決して他の国でない日本の骨格が/山林には厳として在る。/世界に於けるわれらの国の存在理由も/この骨格に基くだろう。」

 

今から見てもこの認識は間違っているとは思えないし、むしろ先見性があるといえるだろう。しかし、ほぼ同じ時期の日本の山村を描いた『月明学校』や『山びこ学校』を読んだ僕には、そこでの子どもたちの生活の苦境とはすれ違った、誇大妄想の言葉に見えてしまうのはどうしようもない。