大井川通信

大井川あたりの事ども

大晦日に一人で宇部の街をさまよう

ふとした気まぐれで、大晦日に一人で他県のビジネスホテルに泊まることになった。何日か前、新しい年の手帳の使い方を考えているときに、今年はしっかり読了本や絵本、映画・ビデオ(いつもはまったく見ないが)のリストを作って、それを励みにどれも100という数字を目指そうと思いいたった。

その時に、建築のリストのアイデアが浮かんでいたのを思い出して、そうだ建築を見に行こう、ということに。しかし長距離ドライブは身体に応える。おのずと近場に見どころが多い山口県に絞られる。

まずは、関門トンネルを抜けて、下関へ。明日には初詣で人があふれるはずの住吉大社をのぞく。さすがに閑散としているが、住吉造の国宝本殿に参拝する。神社建築にはあまり魅力を感じない方だが、やはり国宝の威光にはひるむ。

長府で、功山寺と覚苑(かくおん)寺で、二つの禅宗様建築を見る。これは、「禅宗建築ノート」シリーズの貴重なネタになるだろう。

宇部では、漠然と村野藤吾(1891-1984)の作品を目当てにしていた。一度見たことのある戦前の渡辺翁記念会館(1937)は、今回も外観しか見られなかったが、やはり面白い。正面から見ると、円弧が張り出したような形態になっているが、曲率の違う円弧が五重(細かく見るともっと多い)に重なっているので、見る場所によってその重なりに様々な変化がおきる。

さらに、横に伸びたお饅頭のような(茶色のレンガ貼り)本体に、白い垂直のラインがアクセントになっている。基壇の手前に立つコンクリートの6枚の巨大な板の存在感が圧倒的だが、よく見ると建物本体にもそれに呼応する白い垂直線がいくつもひかれているのに気付く。

渡辺翁記念館の近くに、足元にやたらとボリュームのあるホテルらしき建物があって、気になって調べたらこれも村野藤吾作品だった。ANAクラウンプラザホテル(宇部興産ビル)でこちらは最晩年の1983年の作品。北九州市八幡にある村野作の福岡ひびき信金本店(1971)と、独特のプロポーションに共通点がある。

夕食を買ってホテルに戻るとき、人気のなくなった商店街をいくつも見た。そういえば、20年近く前に知人の美術家諏訪眞理子さんが、宇部の小さな商店街に滞在して作品を作ったことがあって、そのゆかりの地を僕が後から訪ねたことがあった。アーケードの撤去された商店街はその時点で見どころを失っていたから、いまさら探す意味もないだろう、名前も覚えていないしと思った時だった。ホテル近くの平凡な路地にどこか見覚えがある気がする。

たいして期待もせずにゆるいカーブに沿って路地を歩いて行くと、道のわきのアーケードの支柱の一部らしきものになんだか既視感がある。ほどなく路地は太い道に行きついたが、そこの真新しいバス停に「三炭町(さんたんまち)入口」の表示が。

と同時に「三炭町商店街」の名前を思い出す。この路地は商店街の看板を下ろしてしまったようで、どこにもその名に表示はないし、空き地が増えて現役の商店もほとんどない。もともと炭鉱由来の名称で正式な住居表示はまた別のようだから、今はバス停の名前にだけ往時のアーケド商店街の記憶は刻まれている。

いつか誰かがその命名の根拠が失われていることに気づき、改名の提案をするようになるまで、バス停はしばらく記憶装置としての役割を果たし続けるだろう。