大井川通信

大井川あたりの事ども

功山寺仏殿 山口県下関市(禅宗様建築ノート10)

晦日の日に、功山寺仏殿と再会する。僕と付き合いが一番濃密な禅宗様建築は、言うまでもなく実家近くの正福寺地蔵堂だが、ドラマチックなエピソードでは功山寺仏殿に軍配があがるかもしれない。

僕は子どもの頃、全国各地の国宝禅宗様建築の写真をあきもせずにながめていた。その中でも功山寺仏殿の美しさは際立っていたと思う。ただ建築史を学びたいという夢を忘れて、大学は法学部に進学して、哲学・思想の勉強にはまったりもしたから、その間古建築のことは忘れていた。

会社員になって北九州に赴任して、社員旅行で下関長府の功山寺を訪ねたのは偶然だった。支社長が地元で詳しかったのだと記憶する。山門前の階段を上り、真正面に仏殿が姿を現したときに、僕は思わず大きく叫び声をあげた。

禅宗様建築のアイデンティティは、鳥が羽ばたき飛翔するようなフォルムの美しさだ。それを目にした瞬間に、おそらく僕の今までの知識や途切れていた思いがすべてつながったのだろう。

これがあの功山寺仏殿なのだと。僕が本当に求めていたのはこれだったのだと。僕がその後会社を辞めたことの要因の一つはこの出会いにあったと思う。九州を引き払う時、最後に長府に出かけたのは功山寺仏殿にお別れをするためだった。

そのあと九州にまた転居して、出会いの機会も増えることになった。10年ほど前の長期の公開の機会には、じっくり内部空間を体験することができた。

ところで今回はまた別の見方を学ぶことができたようだ。解体修理時の調査によると、周囲のモコシは後の時代に追加したものだという。なるほど、功山寺仏殿の安定感と優美さは、その立ちの低さによるもので、他のモコシ付きの方三間(外見上五間四方で二重屋根となる)の立ちの高い仏殿とは明らかにちがっている。

禅宗様にはモコシのない方三間(三間四方)の一重屋根の仏殿の遺構が多いが、そのプロポーションはモコシ付きのものとは明らかに違う。しかし、功山寺仏殿は、モコシを外した姿をイメージしてみても、方三間の仏殿として通用するプロポーションなのだ。モコシ部分が後から付加されたという説明にあらためて納得することができた。

丈の低いモコシに上層よりも広い屋根を付けないといけないから、モコシの屋根は勾配が少なく四隅の棟はほとんど水平に見える。これが抜群の安定感の原因となっているが、構造の合理性からはややはずれるものなのかもしれない。

それで水はけが悪いためか、檜皮葺(ひわだぶき)の屋根がずいぶん傷んでいる。葺き替えの募金をつのっているので声をかけると、お寺の売店の人が、今は檜皮(ヒノキの皮)が手に入りにくいのだと心配している。山口の瑠璃光寺大宰府天満宮などでも先に葺き替えを計画しているらしい。

テレビ番組で檜皮職人の数が減っていると報じられていたのを思い出した。古建築の保存のために身を投じたいと考えていた頃を思い出し、少額ながら募金をする。