大井川通信

大井川あたりの事ども

愚かさについて

毎日記事を書くことのメリットは、自分の愚かさに触れざるを得なくなることだろう。ふつうわざわざ何か書くときは、自分がいかに優れているかを自慢したいという下心があるのは仕方がない。毎日書いていると、自分では得意になっているつもりでも、底の浅さや軽薄さがおのずと明らかになるという効用がある。

それだけではない。自分にとってよいこと、かっこのいいことには限りがある。失敗談やかっこのわるい部分も書かなくてはならなくなる。といっても、これは(自虐)ネタとしての愚かさだ。

ネタにならないような愚かさそのものについては、それに向き合うことはためらわれるし、すくなくとも通常の面白さはないから、人目のつく場所に発信するのはどうかと思う。何年にもわたって、二千以上の記事を書いていても、この本当の愚かさ(ネタにならないような平常運転の地味な愚かさ)について意図的に書いたことはまずなかったはずだ。

ただ深夜布団に入って、自分の愚かな人生について向き合う時間はある。そんなときは情けない思いにさらされながらも、とてもしみじみと何か深いものに触れたような気がする瞬間がある。得意になって本の読みなどについて書いているときには味わえないような深い何か、だ。

たとえば、〈私〉はなぜ存在するか、という問いは、哲学的で高尚な問いだろう。自分がなぜある時この世界に登場して、いつかこの世界から退出するのか。こんな問いを哲学書を片手に考えることが、何より大切なことで、それにカタルシスさえ感じるように思ってきた。表向きには。

しかし、自分がこの世界内でどのようにふるまって、どのような経緯から今ここにいるのか、という問いは少しも哲学的でも高尚でもないし、その答えには、自分の愚かさがつまっている。一見したところ、この問いに向き合うことが、先ほどの哲学的な問いの答えにつながることはないような気がする。実際、そう思ってきた。

それが、そうでもないらしい、という発見が、今日書きたかったことだ。力こぶをつくってそれに取り組むなんてことではなくて、たんたんと平然と、自分の生活に食い込む愚かさについても目を向けていきたい。そう思う。