大井川通信

大井川あたりの事ども

勁草書房の哲学思想論文集

大学では法学を専攻したが、当時の専門書や教科書はほとんど捨ててしまった。趣味の哲学思想関連本の方がまだ多く手元に残っている。

今回、橋爪大三郎の『仏教の言説戦略』(1986)を読んで、勁草書房のA5版の単行本シリーズが、当時の僕には別格の重みがあったことを思い出した。特に何々叢書といったようなシリーズ名はついていなかったが、白を基調にしたシンプルな紙カバーにビニールカバーがかけられて、一見それとわかるデザインだった。

今村先生の『労働のオントロギー』(1981)と『暴力のオントロギー』(1982)が出版されたばかりの時で、それぞれ翌年の講義の教科書となっていた。さらにその翌年には、浅田彰の『構造と力』(1983)が思想書として異例のベストセラーになり、このシリーズをいっそう輝かしいものにする。その年地元の大学で浅田の講演を聞いてそのカリスマぶりに強い印象を受けた。数年後同じ大学で、橋爪大三郎の話を聞いたがあまり記憶に残っていない。

勁草書房の哲学論文集シリーズは、現在に続くおなじみの装丁になる前は、こげ茶でちょっといかめしい表紙の廣松渉の『マルクス主義の地平』(1969)や箱付きの市川浩の『精神としての身体』(1975)が印象深く、今でも手元にある。

現代思想のブームが続く中、丸山圭三郎の『文化のフェティシズム』(1984)、上野千鶴子の『構造主義の冒険』(1985)や『女という快楽』(1986)あたりまでは熱心に読んだが、大学を卒業後には、このシリーズの重点も社会学英米系の言語哲学に移り、社会学者の橋爪大三郎大澤真幸、哲学者の野家啓一の本などは購入しても、積読のままになることが多くなった。有名編集者の富岡勝さんも編集方針の舵を切ったようなことをどこかのインタビューで話していたと思う。

その後唯一しっかり読んだのは、『〈魂〉に対する態度』(1991)や『〈私〉の存在の比類なさ』(1998)などの哲学者永井均の論文集だろう。廣松渉永井均を正面から論じた勝守真の『現代日本哲学への問い』(2009)が刺激的で、再読して検討したいと思ったがそのままになっている。

この先、僕が読める本の分量、考えることのできる時間は限られている。今回の橋爪さんの積読本の読書で、かつて自分が手をつけたものをきっかけや手がかりにすることが有効で大切であることを実感した。まずは手元にある勁草の論文集を一冊ずつ読み込んでいこうか。