大井川通信

大井川あたりの事ども

『蓼食う虫』 谷崎潤一郎 1929

読書会の課題図書だったが、風邪で参加できなかった。谷崎潤一郎を読むのは初めてだったので、なんとか最後まで読んでみた。そうかくのは、途中までかなり退屈だったからだ。後半になって、通人の義父と若い妻との淡路島の浄瑠璃見物に主人公が同行する場面に続いて、主人公の外国人相手の娼館の娼婦との交渉の場面へとストーリの展開が急となって目が離せなくなり、今後の予断を許さぬような終わり方も良かった。

昭和3年から4年にかけての新聞小説で、当時の一般の読者層には手の届かない、しかしどこかあこがれをもって望むような男女関係を描き出したものなのだろう。

広い屋敷で豊かに暮らす主人公夫婦は、夫にとって妻を性的対象として見ることができなくなったということを唯一の理由として、夫婦関係を継続することを不道徳と断じて、できるだけ無理なく終わらせることに腐心している。そのため妻の未来の結婚相手として公認の愛人を認め、夫の方は外国人娼婦に対して性のはけ口を求めている。

一方、妻の父親は若い芸者上がりの妻を囲って、昔風の自分好みにしつけようとしている。娘夫婦の関係に比べて、事の是非はともかく、地に足がついた関係として描かれている。

この小説の致命的な欠点は、肝心の主人公夫婦の関係が、少しも魅力的に思えない点だ。何らかの観念に無理に引き回されている感じで、生きた人間という気がしない。もしこの小説が時代を先取りするような人間関係を的確に取り上げているのならば、未来の読者にこそ訴えるものがあるはずだろう。しかし、より多様な関係への感性が働いている現代の読者にとってみれば、主人公の判断はあまりに乱暴で短絡的だ。

女性を「母婦型」か「娼婦型」、あるいは「神」か「玩具」という風な二元論でしか見ることができないというのは、この時代の社会通念であったとしても、もはや言語道断でしかない。

僕は小出楢重の挿絵を見るために昔の岩波文庫版を古書店で注文したが、平野謙による文庫解説では、谷崎潤一郎の「完全主義」を体現する円熟した秀作という評価が与えられている。作者の観念癖と性癖をただただ肯定しているだけで、広い視野を欠いた旧式の評論にしか思えなかった。