大井川通信

大井川あたりの事ども

ある教育メソッドの謎

今は、子どもたちに、協働して一つのことを考えさせたり、話し合いを通じて新しいことを発見させたりする授業がはやっている。これからの時代は、そういう学びの力が必要になるからだという。

そのための授業づくりの手法として、こんな形式的なやり方がある。まず、ある設問に答えるために必要な小さな問いをいくつかにわけて、それぞれについて班別に考えさせる。次に各班のメンバー一人ずつを集めた班をあらたに作って、各班で考えた成果を持ち寄ることで、当初の設問を考えさせるというものだ。

パズルのピースを集めると、全体の姿が出現するのと同じような手法だからということで、そういう名前が付けられている。なるほど、協働作業によって、部分的な思考が、より広い思考の一部となり、問題解決につながるという明快なストーリーがここにはある。

しかし、問題の全体をピースに切り分ける作業は、教師のおぜん立てであり、子どもたちは自分が考えるピースを自ら選ぶことはできない。

教育の専門家ではない僕が見ても、短い一コマの授業の中で、あわただしく形式的に手続きを踏むことで、子どもたちに考える力が身に着くようには思えなかった。大人の自己満足、であるような気もした。

こんな疑問がずっとあったのだが、今日、このメソッドの創始者の書いた短文を読んで、この謎が氷解する思いがした。創始者によると、子どもたちには、あらゆる思考の力(協働して問題解決したり、イノベーションを起こしたりする高度な思考を含めて)を潜在的に持っている。あとはそれを適切な環境で発現させることが必要なだけだと。言語学者チョムスキーのコンピテンス/パフォーマンスという考えを参考にしたものだという。

このメソッドに批判的なベテラン教師は、子どもたちの「知りたい」という気持ちに支えられない学びは空疎だという。人間は「知りたい」という思いによって、自分の外に向って飛躍することができるのであり、新しい思考をつかみとることができるのだと、僕も思う。

さらにいうと、思考には生きたモデルが必要だ。目の前のすぐれた思考を追体験することなしに、潜在能力が出現するなんてことはないのだ。数千年前の哲学者の書物が今でも読まれている利用はそこにあるだろう。