大井川通信

大井川あたりの事ども

藤原定家を読む

読書会で、コレクション日本歌人選(笠間書院)の藤原定家(1162-1241)を読む。精選された50首に見開きページで解説がついているからわかりやすいのだが、なんとも難解で技巧的な歌が多くて、読み進めるのに閉口した。

平安時代は400年近く続き、その中で歌はさかんに詠まれ深められてきた。新味を少しでも出すためには、「本歌取り」を極め、「掛詞」をはじめとする技巧の粋を尽くさないといけなかったのだろう。禅問答みたいに理解しにくいという意味で「達磨歌」と揶揄されたこともあるそうだが、名歌といわれるものの多くも、重箱の隅をつつくような息苦しい作品が多い印象だ。

その中で、ふと定家の日常が垣間見れるような異質の作品と出会って救われた感じがする。

 

ももしきのとのへ(戸の外)を出づるよひよひ(宵々)は待たぬにむかふ山の端の月

 

「ももしき」は定家が高級官僚として勤務する宮中(内裏御所)のこと。勤務が終わって、何重にも囲まれた塀の門の外にでると、おそらくは面白くもない長時間の雑務から心底解放されたような気持ちになったのだろう。その無心の視界に山の端(は)の月が不意に現れる。そうかまた今夜もこんな時刻か、と。

いうまでもなく「月」は歌の題材として様々な象徴的な意味を担っており、歌詠みたちからは常に期待され「待たれて」いたものだった。ここでは、そういう象徴と慣習のべベールを脱ぎ棄てた月そのもの、日常的、即物的な月が意外なものとして発見されている。

僕は、定家とは違い、末端の小役人に過ぎなかったが、残業を終え庁舎の裏門から出るときの虚脱した気持ちを思い出して、共感できる歌だった。