大井川通信

大井川あたりの事ども

菜の花の河川敷にて

ヒバリがあがる。またヒバリがあがる。河川敷のあちこちの草地の上で、ヒバリたちは縄張り争いで忙しい。広い畑地のようにはめくるめく上空にはあがらず、(縄張りを見失わないように)低い空でしばらく鳴くと、すぐに下りてきてしまう。

河川敷はいつのまにか菜の花の黄色で塗りつぶされている。妻は菜の花を見るたびに、長男が生まれた時を思い出すという。初めての出産の時の世界の変貌が目に焼き付いているのだろう。今年も彼の誕生日がやってきたけれども、いつの間にかケーキも買わず、長男も友だちと遊んで深夜の帰宅だった。別件でのメールでは触れたけれども、お祝いの言葉を実際に口にすることはなかった。

菜の花の河川敷からは、石炭産業の繁栄の象徴だったボタ山が(すっかり緑に埋もれて角も取れてしまったが)くっきりと見えるし、遠く修験道の山が奇怪な山塊を見せてもいる。巨大なコンクリートの橋は、現代の土木技術の賜物だろう。

橋梁の下では、さかんにイワツバメが飛び交っている。腰の白い帯といくらかずんぐりした体形でそれとわかるが、普通のツバメが渡ってくるのは、もう少し先だ。草地ではまだツグミの姿が目に付くが、間もなく大陸に渡って姿を消してしまうだろう。

沈下橋を渡る。昨日の雨で水量は豊かだ。シラサギがももまで深く流れにひたして、エサをねらっている。今日は水鳥の姿は見えない。

夫婦が赤ちゃんを抱いて、菜の花の前に立っている。遅い子どもだったのか少し年配のカップルだ。祖母らしき人が、三人の姿をカメラに収めようとしている。乳母車からは何本かのチューブが伸びて、小柄な赤ちゃんの口元にまで届いている。

どんな子育ても大変だけれども、身体の弱い子どもへのケアは並大抵ではないだろう。ただ自然の美しさの前では誰もが平等になれる。

飽きっぽい僕は、少し前まで近代詩の名作を暗唱して歩いていたけれども、今日は英語学習用の短文を口頭で繰り返しながら、堤防の石段をあがった。