大井川通信

大井川あたりの事ども

『反哲学入門』 木田元 2007

2010年に文庫化されたものを購入していた。講談社学術文庫ちくま学芸文庫なら学術書扱いで別にまとめてあるが、新潮文庫だから本棚の奥深くに埋もれていた。偶然見つけて読んでみることに。

面白かった。解説の三浦雅士が、まぎれもない名著だといい、若いうちにこの本に出会う人がうらやましいと書いているが、おおげさでなく共感する。その理由として、「西洋の思想の歴史、とりわけその根幹であるいわゆる哲学の歴史が、鷲づかみにされていること」をあげている。

つまり、ここまで全体のありさまがわかっていたら、哲学や思想の道に踏み迷って無駄な時間を使うこともなかったのにということだろう。この鷲づかみのかなめは、日本人にはそもそも西洋の哲学はわからない、わからなくて当然だというものだ。わからないことをわかったふりをすると、本当にわかるということがどういうことなのかわからなくなる。わからないものはわからないと突き放すことが肝心だ。

著者の議論を単純化するとこういうことになる。この世界の外に超自然的な原理を設定してそこから世界を説明すること(ソクラテスプラトンからヘーゲルまで)こそ「哲学」という特異な思考なのであり、ソクラテスより前の自然的思考やニーチェ以降の「反哲学」とは、はっきり区別しないといけない。それをいっしょくたにして哲学として考えようとするから、「なにがなんだか分からなくなる」のだ。

著者自身がこういうことを広言できるようになったのも、長い哲学研究の中で50代になってからだという。それまでは、自分たちがあたかも西洋人であるかのような周囲に合わせて、わかったふりをしていたというのだ。(ただし、この戦中派の哲学者による大胆な違和感の表明が、今の若い世代にうまく伝わっているかどうかは、また別の話だ)

この勘所をおさえれば、超自然的思考としての「哲学」には決定的にわからないところがあるが、ニーチェ以降の「哲学批判」「反哲学」ならわれわれ日本人にもよくわかるという事態が飲み込めるようになる。ニーチェハイデッガーが苦労して読み解くところが、日本人にとって失われた常識の確認であったりするわけだ。

日本の民衆宗教(とくに金光教)の哲学的含蓄を探ろうとする僕にとって、著者の示唆するところはとても重要で有り難い。わざわざ異国の難解な哲学を経由することなく平易な教えを通じてダイレクトに大切な知の核心をつかむことができるのだから。

考えて見れば、僕が大学入学後、初めて真剣に取り組んで目を開かされた哲学の入門書が、木田元(1928-2014)の岩波新書現象学』だった。その後、ハイデッガー論などでもすいぶんと啓発されたが、しばらく著書から離れていた。書棚整理で偶然手に取ったことは僥倖というべきか。

 

 

 

ゴロリに相談する

読書会の二次会で、金光教研究のことを詩人で大学教授のゴロリに相談する。参加者が僕を含めて3人しかいなかったので、相談を持ち掛けやすかった。

ゴロリは、京都大学を卒業後、NHKに就職した。番組制作などにかかわったが、退職。東大の大学院で英文学を学び、その後アメリカの大学に留学して、創作で学位をとっている。帰国後は地方国立大学の医学部で英語教師をやっており、英文の小説と詩集を数冊出版している。今はもっぱら詩の創作に専念していて、日本語の三冊目の出版を企画中。

東大の指導教授は翻訳で有名な柴田元幸だったが、個人的にアプローチして1年半聴講生として講義を聞いたという話は今回初めて聞いた。たしか学部は法学部だったから文学の勉強は一から始めたのかもしれない。

そういう経歴のゴロリだから、アドバイスは本格的で厳しいものだった。やはり僕が、今から大学院で研究するということには疑問を感じているようだ。若い院生がやるような学会発表や様々な下働きをやる気があるのか、本当にそんなことがしたいのか。また本気でなかったら受け入れてはくれないし、遊びのように思われたらまともに指導をしてくれないだろう。僕としてはいまさらアカデミズムで業績を出したいという気持ちはないのだが、それが研究の世界では本気でなく遊びだととられてしまう危険があることに気づかされた。

ゴロリもどうあげ先生と同じく、これはと思う先生をみつけて手紙を書くという方法をすすめてくれた。しかし、やはりそのためには書かれたものがいるし、そもそも受け入れられるためには書く力がないといけない。僕のやりたいことを一通り聞いて理解してくれたあとで、ゴロリは、とにかく書くことを強く勧めてくれた。もちろん研究論文としての書式にのっとったものを。

ゴロリの考えは、僕に考えたいもの、書きたいことがはっきりしているならば、まず書いて書いて書き続けて、教団の機関誌に投稿するなり、自費出版するなりの方が先でいいのではないかというニュアンスが強かった。そういう中で、条件があえば大学へのアプローチも可能ではないか、と。

とりあえず書くという方向性だけははっきりしたうえでの相談だったから戸惑うことはなかったけれど、実際に研究の世界で苦労して実績をあげてきた人のアドバイスは中途半端なものではないと、身が引き締まる思いがする。

もしやるなら、とゴロリ。体力がすべてだから、本気で健康だけは気をつけてください。途中でやめたら周りの人たちに迷惑をかけることになってしまうと。(僕個人の課題ということならとにかく早く始めて燃え尽きてもいいが、研究という形で成果を残すなら長くやることを考えないといけない、という感じだった)

しかし、僕が研究ということを思いつかなければ、旧知のゴロリから親身のアドバイスをもらうこともなかったし、書くことに真剣に取り組もうと思うこともなかっただろう。これからどこに行きつくのかはわからないが、これは本当に良かったと思う。

 

 

 

 

 

 

はっちゃんの命日

猫のはっちゃんが亡くなって5年が経った。おしゃれな生地の袋をまとった小さな骨壺は、テレビの棚に置かれたままだが、まるで気にならない。おそらくこのままでいくだろう。袋には、はっちゃんの写真が飾られている。今日は、妻が好物の缶詰をお供えしていた。

はっちゃんは、師走近くに我が家の庭に迷い込んできた子猫だ。生まれてまだ2カ月ほどだったと思う。庭から拾ってきた妻が、この猫を飼うと宣言した姿をはっきり覚えている。住んで30年近くになるけれど捨て猫が迷い込んできたのは、後にも先にもこの時だけだ。次男が子どもの頃猫カフェで猫アレルギーを発症したから、猫を飼うのは無理だと思っていた。

まず、片目がはれていたので、獣医で治療。それからお尻からぽろぽろギョウチュウの卵が落ちて来て、また治療。わんぱくで、家じゅうを走り回り、棚のモノを落しまくる。人のこともかんだり、引っかいたりする。だから、猫好きの妻との相性もそんなによくなかった。猫をゆずるためのチラシを本気で作ろうとしていたし、モチヤマに捨ててイノシシのエサにしちゃうぞと、本気とも嘘ともつかない冗談を言っていた。

年が明けて、月に一回くらいてんかんの発作がでるようになると、はっちゃんが捨てられたのはこの病気のためではないかと見当がついた。どんなに気性が荒くとも病気であっても飼おうと決心して、去勢の手術をしてもらった一週間後、てんかんの大きな発作がでて、病院の手術台の上ではっちゃんは息をひきとった。

去勢の手術で最後に余計な痛い思いをさせたのがかわいそうだったと思う。まだ猫の飼い方がよくわからない時期で、好物の高い缶詰ばかり食べさせていたから、それはそれでうれしかったのではないかと思ったりもする。

最期のてんかんの発作は見ていられないほど激しいものだったから、仮に生きのびても重い後遺症を背負ったことだろう。半年ばかりがはっちゃんの寿命だったと思うしかない。

はっちゃんの亡くなったあと、二匹の猫を迎えて、その新しい家族が、僕や妻の生きがいとなっている。妻の希望で、性格の大人しいマンチカンを選んだから、はっちゃんのように妻から怒られたりすることはほとんどない。それでも猫にはそれぞれ個性があるから、二匹のマンチカンになくて、はっちゃんにはあったものがある。

九太郎もぼんちゃんも、猫としての気概があるためか、人間に抱かれることを好まない。とくにぼんちゃんは、抱き上げるとすぐに居心地が悪そうに脱出を試みる。妻と相思相愛の九太郎も機嫌が悪い時に抱いたら、怒ってかみついてくるだろう。

はっちゃんは抱っこが好きな猫だったと、妻がなつかしそうにいう。椅子に座っていると足元から上がってきて、何時間でも抱っこされていたのよと。

 

 

 

 

『水中の哲学者たち』 永井玲衣 2021

読書会の課題図書だが、三分の一強読んだところで挫折してしまった。拒絶反応が起きてしまったのだ。普通考えたら、哲学研究者が哲学対話に関わりながら考えたことを、実体験に即して読みやすい文章とわかりやすい比喩で書いている素直な本だから、スラスラと読めてしかるべき本なのだと思う。

こういう本を心理的抵抗感から読み進められなくなるのは、はっきり僕の弱点といっていい。もっと言葉や本への咀嚼力や消化吸収力が強くなってもらわなくては困るのだ。

とはいえ、読書会の参加を考えると、単なる悪口ではない、この本への自分なりの感想を穏当な形で作っておく必要がある。たかが本の一冊の読みくらいで、場の空気を気まずくしたりしてはいけない。

おそらくこの本は、哲学や哲学対話がこうあってほしいという著者の願いによってつづられた祈りの文なのだろうと思う。だから、とても口当たりのいい甘酸っぱい言葉で、器用に描かれている。哲学や哲学対話(この二つはずいぶん違うと思うけれども、著者は連続するものとして描いている)の真相(その限界や可能性、成立条件は何なのか等)をシビアに問う、つまり哲学する本ではないのだ。むしろ哲学対話をプロパガンダする本なのだと思う。

僕は、大学を卒業してから、40年間、社会の荒波の中で細々と対話と思考を続けてきた。この本が課題図書となっている読書会も30年のかかわりの歴史がある。その環境は概して過酷で、なぜこんなことが起るのだろう、あるいはなぜ自分がこんなことをしてしまうのだろうという(自分が考え対話する場所自体についての)自省をたえず迫られるような場所だった。

哲学対話では書物の中の有名哲学者の思考が実際に生きていることに感激するという研究者仲間のエピソードを紹介しているが、まるで社会を哲学のフィールドワークの場所(植民地?)のように扱っているのだ。一方で、先生は答えを知っているのでしょうと詰め寄る子どもに対して、それは誤解だと泣きそうになるというのは無理がある。正解はわからないかもしれないが、現にたくさんの解答の仕方は知っているし、その成果を手放そうとはしていないのだから。

福岡を四国だと思っていたという友達の言葉に著者は揺さぶられる。しかしこれは対話ではなく、完全な独り相撲だ。その友達は単にそのあたりの地理に関心がなく無知だっただけだ。一方的に無知を面白がられた相手にとって、それは考えることのきっかけにならないだろう。

あるいは、ある哲学対話の帰り道、道端の木が切られて悲しかったという参加者のつぶやきに、それこそが哲学対話が扱うべき言葉であると著者は感激する。しかし、何かが哲学であり哲学でないかが重大事であるのは、著者の側の都合にすぎない。

肝心なのは、思いを吐き出させることではなくて、そこから芽生える思考を励ますことだ。それをするには、著者の考える哲学はあまりに内向きだ。椎名誠の小説を教材に「切り株」について考えさせる国語の授業もあるし、僕自身、大井川歩きの中で鎮守の杜の神木の伐採という重いテーマをかかえて考えあぐねている。

以上が、三分の一の感想なのだが、僕は果たして読書会に行くべきなのだろうか・・・と自問自答しつつ参加したが、以上のような論点を踏まえてよい議論ができたと思う。

 

 

古い動画を掘り起こす

画像の次は、動画だ。

僕がビデオカメラを購入したのは、やはり子どもの誕生がきっかけで、VHSの小さなカセットに録画するビデオカメラを95年から7年くらい使ったと思う。長男の誕生から次男の赤ちゃんの頃までの動画(祖父母の姿も多く映っている)が、数十本のカセットになって残っているが、こちらは撮影年月や内容の表示をつけてちゃんと整理されている。

小さなカセットをテレビ用のビデオデッキに差し込めるようにする機械式のアダプターは持っているが、もう古くなっているし、そもそもビデオデッキも小型テレビに組み込まれているものしかないので、視聴・保存には別の手立てが必要だ。20年以上使っていないビデオカメラの本体はカビと汚れで使用できるかはわからない。

次男が三歳の頃8mmビデオカメラを新規に導入して、それから小学校低学年くらいまでの動画が、数10本のカセットとして残っている。こちらはやはり次男ということで長男の時のような緊張感がないためか、カセットはすべて無記入であり、撮影日時も内容も分からない。とんでもない無精者である。

今回はとりあえず、8mmビデオを再生して動画の内容を確認してみることにした。およそ15年ぶりにビデオカメラに電源を入れる。それ以降使っていなかったのは、子どもが成長して撮影意欲を無くしたのと、携帯の進化とスマホの登場によるだろう。

電源コードを探すのに苦労したが、何とかビデオカメラの画面ですべてのカセットの内容を確認して仮の内容見出しをメモすることができた。やはり画像以上に動画の印象は強烈で貴重なものに思える。この作業に二晩かかったが、これでこれ以降の整理に弾みがつくだろう。

 

 

 

 

古い画像を掘り起こす

たぶん2000年頃まで、写真は「写ルンです」みたいなフィルム付きカメラか、それらと殆ど性能の変わらない簡易カメラで撮っていたと思う。フイルムだから写真屋さんに原像に出すことになる。だから写真はプリントされたものが手元に残った。ちょうど子育て真っ最中だから、大量に子どもの写真が保存されてある。

2000年の半ば頃から、僕もデジタルカメラを導入するようになると、撮影枚数をけちる必要がなくなって画像データは増える一方になるが、特別な理由がなければプリントアウトされなくなる。データはカードを経由して、パソコンのハードデスクに保存されることになる。

その時代が10年くらい続き、今度はスマホが登場して、性能が向上して次第にカメラの役割を担うようになる。それで画像データはスマホに置かれたままになり、次にはネット上のクラウド環境に保存されることになる。プリントアウトはいっそうしなくなる。

この経過はまったく無自覚だったが、振り返るとこんなところで大筋間違いはないだろう。すると残されているものは、大量の昔の未整理の写真プリントがあるばかりで、それ以降のデータは行方不明ということになる。

これは本当はまずい事態だ。ある時代の僕の生きた証が、風前の灯ということだからだ。僕は生真面目にデータのバックアップを取ることができない人間なので、データはパソコンのハードデスクに眠ったままのはずだ。

僕は、1990年代後半から、4台のノートパソコンを使ってきた。一代目は液晶画面が壊れてしまったので、素人にはそれ以上の操作ができなくなった。そもそもケーブル等の接続方法が旧型だったので、移し替えてない画像データもあったと思う。

二台目のパソコンは、今回久しぶりに立ち上げたのだが、操作はスムースに行えた。このハードデスクに大量のデジカメデータが保存されていて、バックアップもせずに放置されていたのだ。USBの差込口もあって、USBメモリーになんなくデータのバックアップをとることができた。危ないところだったと思う。そもそもこのパソコンが起動できるかあやしかったし、デジカメのバックアップデータも他には見つからなかったのだ。

三代目のパソコンは、スマホ時代のものだから、画像データはほとんどなかった。

しっかりした人からはだらしないと思われるにちがいないが、こうした交通整理だけでも生活の質はだいぶ向上する気がする。

 

 

『呪われた腕 ハーディ傑作選』 トマス・ハーディ 2016

1968年に新潮文庫で改訳発行された短編集を、近年「村上柴田翻訳堂」(全10冊)の一冊として改題して復刊させたもの。トマス・ハーディ(1840-1928)の小説で今新刊書店で手に入るものはこれだけのようだ。

サマセット・モーム(1874-1965)の『お菓子とビール』を読んで、その小説世界にぐっと引き込まれた。大作家ドリッフィールドのモデルが、当時の国民的な文豪だったトマス・ハーディだと知ったので、作中の存在感あふれる姿にひかれて手に取ってみたのだ。

ドリッフィールドは、お堅い世間に背を向けて、あらゆる階層の人たちと気安くつきあう生活を好んだ。実際に、ハーディーの短編には、いろんな階層の人たちがでてくるし、虐げられた女性が主人公の話が多い。彼女らが報われることはないのだが、作者の同情の視線が注がれていることは間違いない。

収録された8篇の小説は、たとえ短くとも魅力的なストーリーがあり、ドキドキしながら読み進めることができて、結末には意外さだけでなく十分な感慨があった。こんな風にはずれのない短編集は、僕の読書歴のなかではモーム以外にはない。ひょっとするとモーム以上かもしれない。

たしかにストーリーには誇張や偶然すぎる出来事が仕組まれていて、やや作為的な感じがしなくもない。しかし、登場人物は当時の階級差などの社会の組織の中に組み込まれつつも誠実に生きており、そのなかで精一杯あがくものの現実に押しつぶされる悲劇で幕を閉じる。そこには運命のいたずらが働いていたりもする。

たとえば『幻想を追う女』では、主婦兼女流詩人である主人公が、避暑地の宿泊地をたまたま共有する男性詩人にあこがれるものの様々な偶然が重なってあらゆるチャンスがつぶされ一度も会うことができない。男性詩人が自作へに悪評を知って自害してしまったあと、その女性も三人目の子どもを産んで亡くなってしまう。しかし残した子どもになぜかその男性詩人のはっきりした面影が宿り、それに気づいた父親によって浮気を疑われ、その子の将来の過酷な運命を暗示して小説は終わる。相手への強い思いで妊娠して相手に似た子を産むという同じ現象を扱って、夢野久作『押絵の奇蹟』のように情念に惑溺するのではなく、人生の皮肉をシンプルに突き出すのだ。

モームつながりで、よい本に出会えたと思う。 

✳︎ハーディの作品は、運命論あるいは宿命論(fatalism)の色調が濃く、日本の自然主義の時代に早くから好まれて翻訳されたようだ。

 

 

 

 

 

こんな夢をみた(人事異動)

とても忙しい部署に異動が決まってしまった。直接の上司は〇〇課長。部長は△△さん。どちらも実際にお世話になり、とっくの昔に退職した人たちだ。しかし夢の中ではそんなことは気にならない。

仕事は大学の教職員の人事だ。これは経験したことがないし、どのくらいの分量があるのかわからない。季節は秋ごろだろうか。これから年度の後半にかけて忙しくなっていくのだろう。自分の今の力でとてもこなせるとは思えない。

〇〇課長に話をする。実は大学院進学の準備をしていた。しかし業務との両立は無理だろう。1年で転出になったらうれしいが、自分のわがままを通すつもりはない。仕事上必要ならばもちろん上の判断に従う。すると、○○さんは、部長にその話をしたのか、と。

部長からの話は突然だったので、どういう反応をしたのかは自分でもわからない。身体が持つのかどうかとか、いろいろな不安がある。とりあえず若手と飲みに行く部長を追いかけた。田舎道のような広い坂道でおいついて部長に話をする。これからは酒の席もふえるだろうなと不安に思いながら。

 

 

早朝のファミレスで作戦を練る

大村さんとの対話に端を発して、井手先生への宣言、どうあげ女史への相談を通じて、僕の研究願望はしっかり頭をもたげてきた。どんな形で実を結ぶのか、結ばないのかはわからないが、テーマ的にも年齢的にも今回のチャンスを逃したら、今後の人生で研究にアクセスする機会は訪れないだろうという気がする。

土曜日の早朝ファミレスで、しばし思案にふける。これから準備を始めるにしろ、今までやってきたことをベースにしてそれを提示できるものにすることが肝心だ。いかにそれが薄くて物足りなくても、ゼロから始める準備ではたかが知れている。

そうすると、やはり「大井川歩き」のレポート化が必須だ。それには、自分なりの批評の実践と、民俗学社会学文化人類学歴史学、教育学、近代化論、コミュニティ論、自然認識等々の理解が含まれていたはずである。つたないながらもフィールドワーク(聞き取りやその書き起こし、絵本化)も行った。これには時間だけでいえば10年以上の思索と実践の積み重ねがある。この延長線上に、民衆宗教への問題関心もあった。今まで書き散らした雑文、作文をベースに、大井川歩きの成果物をまとめるのが至上命題だろう。

もともとそれを目指していたはずだが、明確な目標がないためにうやむやになっていたのだ。集中して継続的に行えば、半年くらいで(今年度前半の9月まで)でどうにかなるかもしれない。正規の論文ではないのだから、雑多なレポートで構わない。ただし、自分がやりたいことの輪郭だけははっきり出したい。吉田さんとの勉強会を進捗管理の場所とすることができるだろう。

もう一つは肝心の金光教理解を深めないといけない。教義と研究書への継続的な取組が必要だ。一方、その理解を支えるための宗教学、仏教学、哲学等の研鑽を続ける必要がある。ここでも従来からの取組の延長線上が基本となる。これも時間だけでいえば学生時代以来40年の経験があるはずなのだから。

浄土真宗近代教学(中でも清沢満之)、鈴木大拙梅原猛の仏教論、西田、廣松、今村、橋爪ら哲学者等の宗教理解。それらを通じて、僕なりの金光教(民衆宗教)理解の大風呂敷をできるだけ広げられれば、そのうちどの部分が研究の対象となりうるのかが見えて来るだろう。これも半年を区切って取り組もう。行橋詣での井手先生との対話が進捗の試金石となるだろう。

さらに必要なのは、語学である。今後の研究環境で実際にどのくらい語学力が問われるかはわからない。しかしこの点で可能性を狭めたくないというのもあるし、研究分野がきわめて日本的であることからいっても、論理的思索力を維持するために語学をやることは不可欠だろう。今は、英文では、金光教浄土真宗の一般書や批評を読んでいる程度だが、手元の興味ある学問分野の英書にはできるだけ多く手をつけたい。

自分に欠けているのは、ICTへの適応力だ。これは本来仕事上で身に着けておくべき分野であるはずだが、愚痴を言っても仕方がない。身体レベルでの苦手意識があるが、現代的な学習、研究環境に必要なレベルは今から泥縄で到達しようと思う。

どうあげ先生に相談する

どうあげ先生に電話をして吉塚駅前で会う。そのことを記事にしていいかどうか迷ったが、ブログ内を検索すると、わずか半年前にどうあげ先生についてかなり踏み込んで書いている。記憶はいい加減なものだ。

用件はこうだ。金光教についてより広い視野で考えてみたい、研究対象にしてみたいという気持ちが生じたのが、大学院をどう利用したらいいのか、研究者を目指していた経験からアドバイスをもらおうというものだ。

どうあげ先生は、自分の研究歴についてざっと話してくれた。出身大学でギリシャ哲学を学んで、大学院は京都に進みたかったこと。そこに落ちて、まったく考えてなかった九州大に合格したこと。イギリス留学でプラトンの権威である教授の下で研究し、博士号の取得と研究者での就職を目指していたが、いくつかの事情から断念したこと。そのあと、大学の助手と予備校の英語講師の稼ぎが良く、奨学金を完済したこと。彼女はそのあと行政書士の資格をとって開業し、商売を軌道にのせている。

どうあげ先生のアドバイスはこうだ。正式な大学院の入学手続きでアプローチすると「警戒される」(経歴と内容からして不審に思われるということか)だろう。それより、これはと思う先生を探して、個別にアプローチした方がよい。書いたものを送って読んでもらうのもいい。良い先生なら、そういうアプローチは喜ぶはずだ。そこで相談することで、聴講生から始めるなどの方法をアドバイスしてもらえるだろう。自分のやりたいことから優先順位をつけて、ダメ元で当たってみたらいいのではないかと。

実体験に基づくアドバイスで、僕が漠然とイメージしていたことの扉が開かれたような感じがした。ただ、イメージが具体化すると、自分のやってきたこと、考えてきたことがそれに耐えうるかというリアルな話になる。ぐっと身が引き締まる。

もともとどうあげ先生とは、ウマが合うと一方的に思っていたが、気が付くと2時間があっと言う間に過ぎていた。どうあげ先生も同じ感想をいってくれたので、それもうれしかった。

 

ooigawa1212.hatenablog.com