大井川通信

大井川あたりの事ども

その短くはない生涯を短く語る

旧玉乃井旅館での「おはなし会」で、安部文範さんの話を聞いた。タイトルには、安部さんらしいユーモアがこめられているが、こうした微妙な感覚は、おそらく世代限定のものなのだろう。

安部さんは、僕よりほぼ10歳年長だ。1960年代、70年代は、日本社会にとって大きな変動の時期にあたる。見田宗介の本を読んでいたら、世界史的、人類史的な意味からも屈折点であり、「人間の歴史の中で、一回限りの特別な一時期であった」という指摘があった。巨視的に過ぎるような視点からではあるが。

だから、この時代を経験しているかいないかは、とても重要だ。この疾風怒濤の時代を迎えた年齢による経験の差も、驚くほど大きなものになる。安部さんとの付き合いは20年にもなるが、遠い異世代の人のような感覚がある。僕よりさらに10年若い人は、この屈折点以降の経験しかもたない。この点でいえば、それ以降の世代には、どこか共通の手触りが感じられる。

ただし、激動の時代を潜り抜けた安部さんの生活信条から育まれた言葉は、やわらかく伸びやかで、若い人たちも魅了していた。数種類の紅茶を自ら淹れながらのリラックスした会の雰囲気も、安部さんならではの「高貴な」スタイルだ。

安部さんはレジュメの最後に、さりげなくこんな言葉を置いている。こうした内に秘めた静かなヒロイズムに、僕などはしびれてしまうが、これも世代限定のものなのかもしれない。

「かつては貧しく無名であった若者が、今は貧しく無名のまま老いて死んでいこうとしている、それもまたよし、なのだろう」

 

『侵入者』 折原一 2014

叙述トリックを得意とする推理作家というイメージのある折原一(1951-)の、比較的新しい作品を読んでみる。90年代の前半の頃に、熱心に面白く読んだ記憶があるが、その後遠ざかっていた。

ミステリーファンでないのでおおざっぱのことしか言えないが、折原の作品は、叙述でだますだけのトリックから、叙述に様々な工夫をこらした小説へと進化していた。実在の事件をモデルにしたシリーズの一作で、世田谷一家殺人事件と板橋資産家夫婦放火殺人事件を題材にしている。

後者の事件が、前者の事件の近隣で3年前に起きたという設定。資産家殺人事件を扱った本を自費出版した自称小説家のもとに、一家殺人事件の遺族が独自取材の依頼を行うところから物語が始まる。探偵役の自称小説家の取材によって二つの事件の関連など様々なことが明らかになるのだが、本文には、三種類の別のテキストの断片が引用される。

一つは、資産家の事件に関する作品の引用。もう一つは、新たな取材に基づいて書かれる一家殺人事件に関する作品の引用。そして三つめは、事件を再現して犯人を見つける目的で書かれ、実際に事件現場の家で上演されることになる脚本。

こんな複数のテキストが組み合わさっているにも関わらず、決して読みづらくもなければ、理解不能になることもなく、ストーリーを追う面白さや謎解きの意外さを楽しむこともできる。作家のすぐれた技術だと感心する。

と同時に、こうした作品を問題なく受け入れることができるのは、僕たち自身が、時間軸の異なる多層的なテキストをつなぎ合わせるようにして生活している、ということでもあるからだろう。複数の大小の事件がランダムに起きて、捜査や解決のプロセスが併行し、それぞれの謎が解けたり、解けなかったりするような推理小説、といえないこともない。我々の日常や人生というものは。

しばらく、推理小説を読みながら、そんなことを思いめぐらしたいと思う。ところで、折原一が作家中島敦(1909-1942)の甥(妹の子ども)だと知ったのが、今回最大の驚きだった。

 

 

安部重郎氏のこと(祖母の思い出)

大井村本村の住人安部重郎氏(1899-1982)は、母親の33回忌(1971)に親族に話した内容を、「我が家我が父母」という手記にして残している。現在は東京の田無(田村隆一の詩「保谷」の隣町)に住む重郎氏の娘さんからお借りして、読むことができた。

40頁ほどの手書きの手記だけれども、これが面白い。かつての大井村の様子を、一つの家の歴史の語りの中に垣間見ることができる。

僕が好きなのは、重郎氏が語る祖母の思い出だ。祖母は、幕末の安政6年(1859)に勝浦村から安部家に嫁入りした。大正8年(1919)に79歳で亡くなっている。明治6年(1873)に筑前百姓一揆が村に押し寄せた時に、その機転によって被害を最小限に食い止めたのが自慢の一つだったそうだ。

父親は重郎氏が生まれてからすぐに亡くなったので、物心ついてからは祖母と母、姉との四人家族だったという。母は家業に忙しく、孫のしつけや炊事は祖母の仕事だった。重郎氏を「重の字」と呼んで可愛がり、近所の悪童たちが、孫をいじめるようなことがあれば、叱りつけてくれた。気性のさっぱりした、気丈な人だったそうだ。

「人の道や世間の道理、神仏を敬い長上には礼をつくすべきこと、道などに放置されている小動物の死骸など(蛇や土竜や猫など)は人目につかぬ様に埋めてやること、無益の殺生はしてはならぬことなど、よくさとされた」

「私が青年団の選手になって競技に出るとき、褌をしっかりしめて下腹に力を入れてやって来いと言ってくれた」

最後のエピソードなど、いかにも明治の女といった振る舞いで、映画のワンシーンを見るかのようだ。

 

波切不動明王の由来

津屋崎で玉乃井旅館の玄関先のホコラの修繕に関わっているので、身近な小さな神様についてあらためて考えている。集落では村単位でまつる氏神の他に、村内の組ごとにまつるホコラがある。それよりさらに小さな単位(一族や近隣や家など)でまつる神様となると、もう公式の記録には残されず、関係者がいなくなると、そのいわれも不明となり、存在も忘れられてしまうだろう。

大井村ではかつて区長も勤めた安部家が空き家となり、その屋敷を借りて原田さんが種紡ぎ村を営んでいる。縁があってかつての当主安部重郎氏(1899ー1982)の手記を読んでいるのだが、そこにこんな記述がある。

「暮れの二十八日、例年のごとく正月の用意に山に行くと、日ごろ見たこともない大石が頭から海の藻をいっぱい冠って鎮座している。あまりの不思議に、このことを旦那寺の和尚様に話すと『ごれは波切不動明王である。お前の山に降られたことはよくよくの縁である。まつって長く家の守護にせよ』とのことで、我が家では二十八日をもって縁日とし、これをまつったのが今の上の段の不動様である。毎朝の散歩には、私は山を一巡りするのが日課で、必ず参拝して家族の無事と子孫繁昌を祈るのである」

久しぶりに、廃屋の脇を抜けて「上の段」に上がると、レンガとコンクリートで作った小さなホコラが枯葉をかぶっている。安部家の子孫が土地を離れたあと、近隣の親戚がお供えをしていたようだが、ここ数年はその形跡もない。

重郎氏は、戦国時代にさかのぼる家系を誇り、この土地での一族の繁栄の歴史と祖母や母の思い出を語る。土地の守り神に、子孫の繁栄を祈ることはごく自然なことだったろう。しかし、重郎氏の代で社会は激変する。土地と切り離されることが、むしろ個人の自由と幸福の条件となったのだ。

彼の死後わずかの時間で、家屋敷は廃墟となり、守り神もすたれてしまった。先祖たちや神々からすると、これはとんでもなく不自然で、条理に背いた社会の破壊だったにちがいない。

 

 

ケヤキの根を掘る

ケヤキは、子どもの頃からなじみ深い木だ。隣町の府中の街中にはケヤキ並木があったし、古い農家の屋敷森には、巨大なケヤキが目立っていた。僕にとって、武蔵野のイメージに欠かせない木なのだ。

その理由をあれこれ思いめぐらしていて、昔から好きだった詩を思い出した。保谷は、今は合併で無くなってしまった多摩地区の市名だ。

 

保谷はいま/秋のなかにある ぼくはいま/悲惨のなかにある/この心の悲惨にはふかいわけがある 根づよいいわれがある

灼熱の夏がやっとおわって/秋風が武蔵野の果てから果てへ吹き抜けてゆく/黒い武蔵野 沈黙の武蔵野の一点に/ぼくのちいさな家がある/そのちいさな家のなかに/ぼくのちいさな部屋がある/ちいさな部屋にちいさな灯をともして/ぼくは悲惨をめざして労働するのだ/根深い心の悲惨が大地に根をおろし/淋しい裏庭の/あのケヤキの巨木に育つまで  (田村隆一保谷」)

 

簡潔で力強い展開。ダイナミックな視点の飛躍。悲惨という抽象概念をモノのようにつかみだして、それをケヤキにつなげる比ゆの鮮やかさ。

だから、20数年前、今の住宅街に越してきたとき、この区画のシンボルツリーにケヤキを植える計画だったことにも特に依存は無かった。しかし、他の家はみんな成長の早いケヤキに手を焼いて切ってしまい、残っているのは我が家の玄関先だけになった。たまたま敷地が角地で公園に面していたため、ケヤキが多少大きくなっても支障がなかったのだ。

ところが、今回玄関先の敷石がいきなり不自然に持ち上がってしまい、掘り返してみると、太い根がタコの足のように長く伸びて、コンクリートを押し割っている。僕は、業者の人と一緒に、スコップで深い穴を掘って、地中深くでその根を切断した。空中を気ままに伸びる枝とは違い、固い地中を掘り進む根は目がつまって固く、切り口は驚くほど白い。

こんな小さな住宅街では、やはりケヤキの巨木も、精神の悲惨も育てることはできないのだろう。せめて頻繁に小さく刈り込みながら、しばらくケヤキとともにある暮らしを楽しもうと思った。

 

『天啓の殺意』 中町信 1982(2005改稿)

本文庫の解説者は、「叙述トリック」を「Aという事柄(人物)をBという事柄(人物)に錯覚させるトリック」と定義している。僕は推理小説の中でも、このトリックに特に魅力を感じてきた。そこには、何かこの世界の成り立ちの秘密に触れるようなところがあるからだ。

『天啓の殺意』は、推理小説としての出来不出来を超えたところで、根本的な驚きを与え、世界の核心に迫る問いを提出しているように思える。いったい現実とは、虚構とは何だろうか。その二つに区別などつくのだろうか。(以下ネタバレあり)

ある推理作家が、推理雑誌の編集者に、ある企画をもちかける。自分の書いた推理小説の「問題篇」に対して、別の作家に「解決篇」を執筆させ、推理競争をしようというものだ。「問題篇」の原稿には、東北のビニール工場の女専務の殺人事件が描かれているのだが、編集者はそれが実際に起きた事件であることに気づき、自ら事件の調査に乗り出す。

原稿用紙に書かれた虚構と思えたストーリーが、実際の事件であって、その登場人物たちを編集者が実在の人物としてインタビューするという展開には、奇妙な感じを覚えた。小説がまるで現実の世界に侵入したように思えたから。しかし、その現実というものもそもそも小説内の出来事なのだ。

探偵役の編集者が、事件の真相を突き止めて、真犯人を問い詰めようとしたところで事件は意外な展開を見せる。事件の関係者が次々と殺された上に、推理作家も行方不明のままであり、真犯人と思しき人物も殺され、探偵役の編集者も交通事故で重傷を負ってしまう。ここで「叙述トリック」の種が明かされ、驚くべき真相が明らかになる。

推理作家の「問題篇」の原稿が、実は、編集者が調査に乗り出し、それが現実の出来事であることを確認して、真犯人をおいつめるところまで続いていたというのだ。僕はこの真相を知った瞬間、現実に起きたカラフルな出来事が、原稿用紙の上のモノクロの文字の連なりに回収されてしまったような奇妙な感覚を味わった。

初めの違和感が虚構の現実化であるなら、ここでは現実が虚構へと反転する。この反転を成立させるために、ストーリーに無理やりなつじつま合わせがあることには目をつむらないといけない。

推理作家は、編集者が真犯人であることに気づいた実際の事件を、あたかも犯人が別の人間であるかのように書くことで、自分を裏切った人間を闇に葬ろうとしていたのだ。実際のところ、編集者は自分の罪を着せるために、推理作家の思惑通り彼女を殺してしまう。これで探偵=犯人という作者がこだわるテーマは達成されるのだが、ちょっとけむに巻かれたような印象だ。

 

 

行く鳥・来る鳥

数日前、大井川の土手の近くを歩いていると、足もとから一せいに飛び立つ鳥の群れがあった。ハトかムクドリだろう。電線に止まった一羽に双眼鏡を向けると、なんとツグミだった。冬の野原では単独行動が目立つツグミも、群れで渡りに備える季節になったのだ。

これも数日前。海藻の漂着が目立つようになった砂浜を歩いていると、ヒラタブンブクの白い殻が、貝塚みたいに大量に流れついている場所がある。諸星大二郎先生に差し上げたあの奇妙なウニの殻だ。年間を通じてめったに手に入らないのだが、海流の関係で春先には拾うことができる。それにしても、これは大漁だ。形のいいのを選んで10個ほど持ち帰る。昨年の日記をみると、一日違いで「ブンブク祭り」の記載があった。自然の運行は驚くほど正確だ。

これは昨日。海岸沿いの街で車を走らせていると、大量のカラスが上空を舞っている。ミヤマガラスだ。近年はミヤマガラスの群れを見る機会も少し減ったように感じるし、群れもだいぶ小さくなった気がする。これだけ大きなものは久しぶりだ。渡りにそなえて、この古い港町に集結しているのだろうか。

今日はじめて、ツバメの姿を見た。野原には、モンシロチョウが舞っている。おやっと思って足元をよく見ると、小さな花々が春を先取りしたように咲き乱れていた。

 

こんな夢をみた(恋愛ドラマ)

初めは実写ドラマ風の展開。主人公は彼女と暮らしているのだが、何かの間違いでだれか別の人間を殺してしまう。彼女はそれを知ると、意外なほど度胸がすわっていて、事件の隠蔽に協力してくれる。

するとここでは僕がなぜかその主人公になっている。もう彼女とは、あまりうまくいっていないのだろうか。僕は、薬局の仕事を手伝っていて、薬局のオーナーの奥さんとお店でいっしょに働くことになる。いっしょに店を出て、同じ車両にのる彼女を意識している。

ここからは本を読んでいるという設定に変わる。僕は根気よく筋を追うことが苦手で、結論を早く知りたくなるというのは現実でも夢でも一緒だ。

本のページを飛ばして先を読むと、主人公は、先ほどの薬局オーナーの奥さんと付き合うようになって、オーナーと対決するシーンがある。

さらにページを飛ばすと、結末付近でオーナーの方も、主人公の元カノとすでに付き合っていて、オーナーが彼女からの伝言を主人公に伝える場面がある。

あの殺人の一件はどうなるだろうか、読みながらふと気になる。

すると僕は雑誌で、この恋愛ドラマを演じた俳優たちや監督のインタビュー記事を読んだりしている。しょせん彼ら彼女らはセレブで、僕たちとは別世界に住んでいるのだ。物語の楽屋をのぞいたような気になって、ちょっと白けて、おわり。

 

 

『世界史の実験』 柄谷行人 2019

柄谷行人の新著。こんどこそは、という思いで期待して読んだけれども、目覚ましい読後感はなかった。

柄谷の著作を熱心に読んで刺激を受けたのは、2000年頃、柄谷がNAMという社会運動を行っていた頃までだ。それ以降の多くの著作は積読状態で、何冊かの手軽な小著は読んできたが、あまり柄谷らしさを感じることはなかった。

先日、新聞の特集で平成の30冊という識者へのアンケート企画があって、柄谷の『トランスクリティーク』(2001)があげられていた。著作の魅力ということでは、僕の漠然とした印象も案外当たっているのかもしれない。

自分が年齢を重ねながら気づくのは、かつて一世を風靡した思想家たちの老いや衰えである。自分の考えを更新することは、まして時代の先端でヒリヒリした批評の言葉を紡ぐことは、とんでもなく労力のかかる作業だろう。柄谷も80歳近くなる。いくらひいきの気持ちがあっても、柄谷だけが衰えを免れるとは考えにくい。

ただし今度の本は、今までの柄谷自身の歩みを振り返って、新しい仕事を位置づけているので、理解が容易になったところもあった。

若い時から、マルクスとともに柳田国男を読んできたが、柳田についてはその思考の「内的な体系」をうまく取り出すまでにはいたらなかった。空間的な差異を観察することで、それを時間的な差異として理解する「実験の史学」というのが、それでないのか。柳田の山人研究は、世界史における遊動民(原遊動性)の役割を、日本を舞台に「実験の史学」によって明らかにしようとするものである。柳田による固有信仰の研究は、この山人の宗教を対象としているから、内向きなものではない。人類学者のいう互酬性(贈与)は、定住の結果であって、原遊動民はそれとは別の交換関係を生きていたはずだ。

こうしてポイントを要約してみると、柄谷の思考の輪郭が多少はっきりと見えてくる気がする。かつてのようにダイレクトに今この場所の自分に突き刺さることはなくても、大井川歩きを使命とする僕にとっては、旧村落と里山の時空間を理解するためには、重要な認識だという予感がする。

かつて経済学者の岩井克人は、「柄谷さんの言葉のなかに『真理』が宿っているという不思議な感覚」に襲われると語った。僕も、若いうちからこの「不思議な感覚」を共有した一人だ。僕にも、おそらくたいした時間は残されてはいないだろう。柄谷からのバトンを受け取らなければ、という思いをあらたにした。

 

『模倣の殺意』 中町信 1971(2004改稿)

久しぶりに推理小説を読んだ。推理小説は一時期熱心に読んだことはあるが、何かが語れるような読者では全くない。この本も、書店で「これはすごい」という帯を見て、気まぐれに手にとったものだ。

面白かったので一気に読めたが、思ったより昔の作品で、僕の親世代といっていい著者中町信(1935-2009)も、すでに亡くなっている。高度成長期がまだ終わる前の時代で、世相がストレートに出ている作品ではないけれども、作品世界を構成する要素も仕組みも人間の思想や感情も、すべてどことなく古びていて現在と距離が感じられる。そこも面白かった。デビュー作のためか、文体もストーリー展開も、シンプルで無駄がなく少々骨ばっている。それも悪くない。(以下、ネタバレあり)

密室で、若い推理作家が服毒自殺をする。それが他殺ではないかと疑う二人の人物の行動を追う日付入りの章が交互に並んでいる。事件が7月7日で、解決まで3カ月余り。明快でスタイリッシュな構成だ。

探偵役の一人は、死んだ推理作家の婚約者で、今は亡き有名作家の娘であり、父親の家に出入りする彼と知り合ったのだ。交際中に見聞きした事実を元に、彼の故郷での古い人間関係を「殺人」の原因として追及していく。

探偵役のもう一人は、死んだ推理作家とも面識のある男性ルポライターで、彼に新人賞を与えた雑誌の関係者の個人的な怨恨(交際中の娘を裏切った)が「殺人」の動機と考えて推理を進める。

二人の推理は、それぞれに徐々に核心に迫っているかに見える。しかし、犯人がどちらか一方であるなら、どちらかの推理は的外れということになるのだろうか。

途中、本格物にこだわる推理作家に対して、雑誌の編集長から「探偵=犯人という大テーマに挑戦しろ」という叱咤があったという記述があって、読者への何らかのヒントか挑発にしか思えないのだが、その時点では、二人の探偵の内どちらかが犯人である可能性はとても思い浮かばない。

しかし、終盤に入ると、死んだ推理作家の一年前の新人賞受賞の時期が、女探偵にとっては見知らぬ「今年」の出来事とされることで、交互に並べられた二人の探偵の行動記録に時間的なズレがあることが明らかになる。ていねいに読めば、同一の事件を追っているかに見える二人の記述に、初めから小さな不整合や違和が仕組まれているのだろう。事前にこの叙述トリックに気づいていないかぎり、この小説の白眉は、平坦に思えた作品世界が、時間的に断絶した二つの世界に切り裂かれる瞬間だろう。

トリックは、一年前の同日に同性同名の推理作家Aが同様の状況で自死していたというもの。女探偵は前の事件を追い、男探偵はその一年後の推理作家Bの事件を追っていたことになる。推理作家Aは本当の自殺だったが、推理作家Bの事件は女探偵による殺人だったことを、男探偵は突き止める。ここに、大胆に予告された「探偵=犯人」というテーマが実現することになる。

女探偵の父である老作家は、死の直前に創作力の衰えから推理作家Aの持ち込み原稿の盗作をしてしまう。その原稿が、同姓同名の偶然から推理作家Bの元に渡ったため、それを取り戻し父の名誉を守るというのが殺人の動機になる。

同姓同名の推理作家による、同一の推理小説の原稿がらみの一年違いの同じ日時の事件という無理やりの設定があるために、この叙述トリックは見破られにくい。しかしこの無理やりの設定をこしらえるために、真相のストーリーは複雑でわかりにくくなり、特に女探偵の殺人にいたる動機やふるまいはリアリティを欠くことになる。

もっとも、事件の真相が物語として魅力的で説得力をもつことを要求するのは、この手の作品にはお門違いなのだろう。手品の種それ自体には何の魅力も必要がないことと同じだ。手品でもかんじんなのは上演される現象の見事さであり、種明かしという答え合わせが(種それ自体ではなく)求められるだけなのだから。