大井川通信

大井川あたりの事ども

あべこべのひと

20代の頃、東京の塾で同僚だった知人と会った。

知人は僕よりいくらか年長で、今年塾を定年退職したそうだ。それで再就職までの時間を利用して、実家の隣町に住むお姉さんの看病で二カ月ばかりこちらに滞在しているという。僕が今住んでいる地方が、たまたま彼の出身地なのだ。彼はすでに両親を亡くして、空き家になった実家を処分している。大学から東京にでてしまったから、両親の世話などは、地元に残って独身で仕事を続けてきた姉に頼ってしまったのだろう。だから、残された姉のために親身になっているのかもしれない。

そういう家族間の事情が、僕とまったく同じなのに驚いた。ただ知人の実家が地方にあって、彼が東京で家族を持ったのとは逆に、僕の実家が東京にあり、僕が地方で家族をもったという違いがあるだけだ。

僕の実家の処分がこれからなのと、実家の隣町に住む僕の姉は、とりあえず健康であるという違いはある。ただ僕も、いままで迷惑をかけてきた姉のためなら、できるだけのことはしたいという気持ちがある。

還暦という節目の知人に、今までの人生で何が一番よかったか聞いてみた。家族を持ったこと、と即答される。これは僕も同じ答えかもしれない。

ながく音楽を聴いてきた知人は、音楽についての批評を書きはじめようと計画しているようだった。これはちょっと意外だった。しかし、僕自身も、今まで生きてきたことのまとめとなるような文章を書いてみたいという希望がある。年齢的にそういう時期なのかもしれない。

お互いにエールを交わすような気持ちで別れる。

 

 

 

 

 

麻酔の恐怖(続き)

足首の金具をはずす手術のあとは、部分麻酔が十分に効いていたから、前回の時のような激痛は免れた。しかし、その代わり少し不思議な体験をした。

手術した右足は、ふくらはぎから足首まで包帯におおわれて、足指の付け根くらいから上だけが露出している。その部分にまったく感覚がないから、手で触ると不思議な感じだったのだ。生温かいけれども、血の通った人間の足先というより、妙なつくりもののような気持ちの悪さ。この違和感の由来はなんだろう。

自分の足でなければ、他人の足ということになる。しかし「他人の足」ならば、さわってもこんな違和感はないはずだ。そう、あたたかい死体、つまり「死人の足」を触ってしまった感じなのだ。

他人の足なら、それに触れることで、敏感にくすぐったく感じたりする主体が存在する。そこに反応がある。もっとも寝ていたりして反応がない場合もあるだろう。それとどう違うのか。

他人の足なら、視覚的にそこに他人の身体がつながっている。身体から切り離された足先が転がっていたら、それを誰かの足として受け止めることなどできないだろう。手術後の僕にとって、事態は全く一緒だったのだ。その切断された足先が、地面に転がっているのではなくて、なぜかたまたま自分の右足を伸ばした先に存在する、というだけの違い。

足先だけなって、そこに宿る主体など存在しない。僕にとって、それはもうバラバラ殺人の死体の一部でしかなかったわけだ。

ところで、この死体の一部が命を取り戻す過程は、我ながらとても感動的で、厳粛なものだった。

まず、足の裏のどこか一点の感覚細胞と連絡がとれて、一本の細い経路を通じて交信が可能になる瞬間が訪れる。すると、一点、また一点というように、そういう交信のつながりが次々に増えていく感じがする。そうした線のつながりがやがて束になって、足先までが自分の身体の一部として無理なく感じることができるようになったのだ。

 

 

『感性は感動しない』 椹木野衣 2018

以前、現代美術が専門の知人に、美術の批評家で誰が面白いかを聞いたら、椹木野衣(さわらぎのい)の名前を教えてくれた。新聞の書評を意識して読むようにすると、なるほど彼の書く文章は、平易に書かれているにもかかわらず、解像度が他の書き手とはワンランク違う印象を受ける。

この若い読者にむけて書かれたエッセイ集を読むと、そういう彼の批評文の秘密に触れることができる。批評家が、自分の発想や思考の方法、文章を書くことの内実について、ここまで正直に描いているのを読んだ記憶がない。本来は、企業秘密に類することだろう。著者の文章が持つ「突き抜けた感じ」も、こんな開かれたスタンスに由来しているかもしれない。

ほそぼそと自分の考えを書きついでいこうとしている人間に対して、この本は、半分は自信を打ち砕き、半分はそれを励ましてくれるようなところがある。

自信を打ち砕くというのは、美術を観ることや本を読むこと、文章を書くことの奥深さや恐ろしさを教えてくれるから。僕がそこに届くことはないだろう。

励ましてくれるというのは、三つ目の章「批評の根となる記憶と生活」の内容である。「自分の生まれ育った、決して変えることのできない風景や記憶というのをないがしろにしては、どんなに抽象的で思弁的なことを書こうとしてもうまくいかない」という指摘だ。少なくともこの点だけは、僕と同世代のすぐれた批評家の言葉に、実感としてうなずくことができた。

 

 

麻酔の恐怖(その1)

以前に足首の骨を折ったときに、全身麻酔の手術を受けたことがある。移動用のベッドに載せられ手術室に入っていくとき、仰向けに見上げる部屋の天井や医師たちの様子が、映画のシーンみたいで既視感があった。人生の最期に観る景色は、こんなものかもしれないと思う。口にマスクのようなものが取り付けられると、ストンと意識が落ちた。次の瞬間には、手術後の病室のベッドの上である。

だるま落としのように手術中の時間がはじき飛ばされて、その前後の意識がピタリとつながったように感じられたのは、不思議な経験だった。しかし、その後がいけなかった。おそらく部分麻酔がほとんど効かなかったのだろう。尋常でない傷口の痛さである。座薬をいれてもらい、なんとかしのいだ。

だから一年半後、足首の金具を外す手術のときには、麻酔への期待と不安があった。しかし期待はかなえられず、不安は杞憂だった。この時の全身麻酔は、なぜか時の経過が感じられるもので、眠りに入る感覚と、夢を見ているような感覚が残る。つまり、日常の眠りと変わらなかったのだ。

一方、部分麻酔の方は完ぺきに効いていて、何の痛みもない。それで、前回はほとんど効いてなかったと気づいたわけだ。しかし、身体の一部が麻痺して動かない、というのは、人工的に作り出した現象とはいえ、身体にとってはまちがいなく危機的な事態である。その危機は、また別の恐怖を導き出すだろう。当時のメモに、その詳細が書かれている。

 

『夜と耳』Ort-d.d(Theatre Ort)2012

安吾の短編集を読んで、6年前に観た小劇場の芝居を思い出した。安吾の『夜長姫と耳男』を原作とした劇だったからだ。

中年過ぎてから、とあるワークショップに参加したのをきっかけに小劇場の舞台を観出した僕は、なんとか舞台を観る眼を養いたいと、観劇リストをつくったり、つとめて感想をメモしたりしていた。その頃から自分の観た芝居に点数をつけてきたが、今でも最高点はこの芝居である。

かなりおくれて、しかも地方で観劇するようになった僕にとって、決定的な芝居体験は、オルト・ディーディー(現在はシアターオルト)のこの舞台だったような気がする。

残念ながらメモを残していないので、断片的な記憶をたどってみる。

地方都市のさびれた商店街にある銀行支店を改造した劇場。その中の小さな空間の闇を背景として芝居が始まる。まず男が椅子に腰かけて読書を始める。安吾の『夜長姫と耳男』だ。男には妻がいるが、読み進めるにつれ、物語の世界が出現して、二人が耳男と夜長姫を演じ始める。原作そのままの長大なセリフが俳優の口から放射されるが、俳優の身体の激しい動きと一体化して違和感がない。暑いけれども暑苦しくない、冷たい熱量、といった言葉が思い浮かんだのを覚えている。

読むという行為の秘儀性、演じることの不思議、言葉と肉体との融合など、小さな舞台の上に様々なテーマが折り重なり、一分の隙もなく空間化しているような素晴らしい芝居だった。

その後シアターオルトと主宰の倉迫康史さんは、僕の故郷の隣町立川に拠点を移して活動の幅を広げている。機会があれば、あの濃密な舞台をまた体験してみたい。

 

 

 

 

坂口安吾の短編を読む

読書会の課題図書で、岩波文庫安吾の短編集を読む。以前柄谷行人安吾の再評価をした時、評論を読んで、なるほど面白いと思っていた。しかし今小説を読むと、『風博士』『桜の森の満開の下』『夜長姫と耳男』などの一部の特異な作風の作品をのぞいては、あまり読めたものじゃない、というのが正直な印象だ。

確かに『白痴』は空襲下の生活を簡潔な文体で描いて、独特の緊張感がある。しかしその内容たるや。

文化映画の演出を仕事とする主人公は、職場の同僚たちや近所の住民の俗物性を徹底して軽蔑している。女は欲しいが、生活にとりこまれたくない。そこへ近所の屋敷の「気違い」主人の「白痴」の女房が逃げ込んできたのをいいことに、家に隠しおいて関係をもつ。主人公は、彼女を、無自覚な肉欲とあさましい死への恐怖しかない(虫!以下の)存在と断定するが、それは自分の身勝手な行為のうしろめたさを押し隠すためだろう。実際彼は、露見をおそれて戦火で彼女が死ぬのを願う。空襲の猛火におわれ、二人で逃げまどう際に彼女の「意志」に気づいて猛烈に感動したのもつかのま、翌朝には「豚」扱いに戻る。

知的障害のある女性への自分勝手で冷酷な視線は、主人公というよりむしろ作者自身のものと感じられて、寒々とした気持ちにさせられる。人道的に見て問題だ、ということをいいたいのではない。単純に人間を見る目が浅すぎるのだ。

この作品につづく『女体』『恋をしに行く』『戦争と一人の女』『青鬼の褌を洗う女』等の作品で語られる女性観、人間観は相変わらず稚拙なものだ。女性に対して、肉体か魂か、肉欲か貞操か、妖婦か処女か、という恐ろしく俗な二元論で押し通そうとするものだから、ごねごねと理屈っぽいわりには、何一つ新しい発見も認識もでてこない。

読書会では、こんな批判めいた感想を話したのだが、何人かの参加者から共感を得られたのは心強かった。

 

寝具にくるまって

体調がすぐれなくて、寝具にくるまって休んでいる時に、ふとこんなことを考えた。

たとえば、圧倒的な権力や経済力を誇っている人物にしたって、あるいは、何かの分野で突出した才能を発揮して名声を勝ち得ている人間にしたって、一日に一度は、こうして寝具の中で、孤独や煩悶と向き合っているのだろう。

現世でどれだけの権勢を誇っても、死んでしまったら畳一枚分の埋葬の土地が必要なだけだ、という教訓話を聞いたことがあるが、そもそも入浴したり、寝たりというプライベートな場所は畳一枚分で間に合う。そこでは、だれでも自分が身体に閉ざされた存在であることに気づき、そこで苦しんだり、逆に安らったりしているのだろう。

そんなふうに考えると、羨望や反発や隔絶の気分を感じてしまいがちな、見ず知らずの彼らに対しても、どこか親しみの感情がわいてくるような気がする。

この世界は、我々人類の身体が見ている夢なのだろう。あのミソサザイのように一人一人の身体はちょっとしたアクシデントで命を失くしてしまう。すべての人類の身体が機能を失えば、この世界もそれで終わる。地球の滅亡を待つまでもない。

 

ミソサザイを看取る

 朝から職場で、スズメが部屋に紛れ込んだと騒いでいる。窓を開けて出て来るのを待っているのだが、書棚の上などに隠れてなかなか飛び立たない。ようやく飛び立つと、ガラスにぶつかって、またどこかに隠れてしまった。

こんどは部屋を横切るようにながく飛んで、ガラス窓に激突する。ちょうど僕の目の前の飾り棚の上に落ちた。瞬間、小鳥は首を大きくねじって痙攣したので、不安そうな小鳥の瞳と目が合った気がした。僕はあわてて、小鳥にてのひらをかぶせて、そっとつかみとるようにする。

てのひらを開くと、スズメではなく、ミソサザイだった。全身焦げ茶色の日本で一番小さな鳥だ。くちばしなど短い針のように細い。手のひらにまったく重さを感じないので、秤にのせるとわずか10グラムしかなかった。ちなみにスズメでも体重は25グラムくらいある。

ガラスにぶつかった鳥がしばらく気絶したあとで、回復する様子を何度か見ていたので、しばらく室外において観察してみたが、やがて両足をそろえて伸ばすようにして身体が固まってしまった。

今年の2月にもミソサザイが職場に迷い込んで、そのときは無事逃がしている。もともとのすみかは森の深いところだから、人工の建造物にはさほど慣れていないのだろう。残念だ。

 

子どもの呼び名

吉本隆明は子どもの時、家族や友達から、「金ちゃん」と呼ばれていた。上級学校では、理屈っぽさから「哲ちゃん」と呼ばれたというのは、吉本らしい。(『少年』1999)

なぜそう呼ぶのかのを親戚のおばさんに聞くと、タカアキが、タカキ、タカキンとなり、それがつまってキンちゃんとなったという説明を受けたが、どうも納得できない。最近になって、琉球語の尊称の接尾語(さんとか様にあたる言葉)に「金」があることを知り、吉本の家が琉球に近い天草の出身であることから、それがあだ名の語源ではないかと推理してようやく納得できたという。

僕は長男が生まれるとき、夫婦で女の子だったらカナという名前にしたいと話していた。胎児のときに男の子とわかると、しかたなく男名にして、カナノスケと呼ぶようになった。実際はもっとまじめに名前をつけたのだが、出産後もこれがあだ名で残り、これがつまってノスケとしばらく呼んでいた。

次男には、妻が〇タルという名前をつけたが、呼ぶときは〇タルチンになり、それがつまってターチンが、子ども時代をつうじての呼び名となった。

自分の経験からも、子どもの呼称はかなりいい加減に変化し、よびやすさから強引に「つまって」しまう。吉本の叔母さんの説明は、この点でとてもリアリティがあるのだ。一方、琉球語を持ち出しての吉本説は、沖縄や天草で子どもを金と呼ぶ習慣があるならまだしも、ほとんど説得力をもたないだろう。

吉本は晩年の社会的な発言でも、たとえばオウム事件原発問題をめぐって、世間の人が首をかしげるような発言をすることがあった。そんなときにも、吉本は、自分の理論から導かれる結論だけに重きを置きすぎていたような気がする。

 

 

 

いじめっ子と妻(その3)

次男は、二歳を過ぎても言葉が出なくて、幼稚園に入っても、園ではいつもお世話をしてくれる専任の先生の膝の上にチョコンと座っていた。小学校に入学後もしばらくは、クレヨンしんちゃんなどの好きなアニメのセリフを好き勝手にくりかえすことが多くて、友だちとの会話は難しかったと思う。

今の学校には、特別支援学級に在籍する子どもたちも、普通学級の子どもに交じって授業を受ける「交流学級」という仕組みがある。しかし、身体的なものとは違って、知的な「障害」は、子どもには理解が難しいものだろう。いくら仲良くしようと教えられても、残念ながら、実際にはガイジ等の差別的な呼び名がはびこっている。

小学校5年生の頃だったろうか。次男もそんな周囲の冷たい視線や反応に気づくようになって、家でも悩みを口にするようになった。そんなとき、担任の先生から普通学級の子どもたちに母親から直接話をしたらどうかという提案があった。

当日、妻は一時間の授業をまかされて、次男の話をしたそうだ。授業の初めに、妻が子どもたちに、「みんなは〇〇のこと変だと思っているのかな」とたずねると、何人かの子どもが正直に手をあげる。

次男が言葉を覚えるのが遅くて今でもしゃべることが苦手なこと、話しかけても耳に入っていないことも多いこと、などを話して、次男にはこんなふうに接してほしいという具体的なお願いをしたそうだ。

妻は学校の勉強は苦手だったはずだが、妙に度胸があったりする。教壇に立つと、子どもたちの真剣な目が向けられて、気持ちよかったという。後ろに校長先生たちが見に来ていたが、次男のためだから気にしなかったと笑っていた。

あとで担任の先生から、こんな話を聞いた。真面目さや正義感から、次男の言動に批判的だった女の子が、まっさきに次男を手助けするようになったそうだ。

その後もいろんなことがあり、いろんな人たちに助けられて、次男は地元の中学を卒業した。(妻は次男のことで中学のクラスあてに手紙を書いたりもした)

卒業後、次男は特別支援学校の高等部に進学して、寮生活を始める。寮からの初めての帰宅日、次男といっしょに駅からの道を歩いていると、新しい制服に身を包んだ女子高生たちとすれちがった。そのうちの一人が、ごく自然に「わー 〇〇くん!」と声をかけてきた。次男は、ちょと照れたように手をあげていたけれども、僕にはそのやり取りがとてもうれしかった。