大井川通信

大井川あたりの事ども

『魔障ヶ岳』 諸星大二郎 2005

考古学者稗田礼二郎が主人公の漫画「妖怪ハンター」シリーズの一冊。出版当時読んだときは、ラッパーの教祖が出てきたり、旧石器ねつ造事件を話題にしたりと、ストーリーもとっちらかった感じで、あまりいい印象ではなかった。そう思ったのは、物語の中心にすえられた「モノ」の意味合いがよくわからなかったためでもある。今回『やまとことばの人類学』を読んでみて、コトとモノの本来の含意が、常識とは全く違っていることを知り、あらためて読み直してみた。

稗田たちは、山中の祭祀遺跡の調査に向かう。そこで不可思議な体験をして、岩陰のモノに出会い、名をつけるように頼まれる。「魔」と名づけた若い考古学者は、新発見に取りつかれて不幸な最期をとげる。「神」と名づけた修験者は、霊能力を身に着けて、多くの人にその力を与えるが、事故死する。死んだ恋人の名をつけた女性は、恋人(モノ)との生活を再開するが、やがて破綻する。名をつけることを拒んだ稗田には、モノがモノとしてつきまとったため、魔障ヶ岳に返しに行く。

『やまとことばの人類学』では、モノとは、恒常不変の神の原理や世間一般の法則をあらわすものだった。諸星の作品では、作中で折口信夫の説を引用して、古代人の信仰の対象は「かみ」「おに」「たま」「もの」に分類され、モノとは具体的な姿のない抽象的で霊的な存在、と解説している。いずれにしろ、単なる物体に貶められて、なんとなくコトよりも格下であるかのように扱われる現代のモノではない、もっと中心的で自ら力をふるうモノを描いているのだ。

「稗田のモノ語り」を副題とするこの作品には、古代祭祀、修験、新宗教、名づけと存在等々、大井川歩きの身近にあって興味があるテーマが満載である。再読しても相変わらずストーリーは謎めいているが、諸星の直観はきっと大切な何かをつかまえているにちがいない。

テッド・チャン その他の短編

『あなたの人生の物語』を含む短編集(2003  ハヤカワ文庫SF)について、再読に備えての覚書。一読後のメモのため、間違いや誤解を含む。

◎『バビロンの塔』

バベルの塔が完成し、天に届いたという幻想的な設定を、天の表面を「掘りぬく」ために塔に登る鉱夫の視点からリアルに描く、奇妙な感覚にとらわれる作品。結末の「現実」への回帰もよい。 

◯『理解』

植物人間状態であるホルモンを注入されたために、知的能力を増強されて、やがてその臨界を超えるまでに至った主人公の行動と、もう一人の臨界超越者とのいわば「天上の」戦いを克明に描いて手に汗握る作品。「ひとつで全宇宙を表現する巨大な象形文字」という『あなたの人生の物語』につながるアイデアも含む、近未来的な着想の嵐。

『ゼロで割る』

スタイリッシュだが難解。そのため読了後もカタルシスはない。9個のパートの分かれ、まずは数学基礎論をめぐる話題、次にaとして、女性数学者レネーの記述、次にbとして夫のカールの記述が続く。レネーは数学の無矛盾性を信じ、レネーは感情移入による人間理解を信じている。おそらく数学基礎論でのトピックの記述と、二人のそれぞれの真実の変遷とが対応しているのだろう。最後に至って、二人に起きた信念の崩壊は共有されるが、それは二人の関係に悲劇をもたらすものだったというオチか。パズルを解くように読み解く面白さはあるかもしれない。

 ◎『72文字』

面白かった。生物の発生をめぐる前成説にオートマンやホムンクルス、それに王立協会。錬金術の時代のようで、しかし「名辞」をめぐる架空の科学が支配する世界となっている。その科学の文脈での、作者らしいねちっこい議論の展開とともに、科学者、政治家、神学徒、技術者、殺し屋が入り乱れての活劇もあり、飽きさせない。

『地獄とは神の不在なり』

天使の降臨による奇跡や、地獄の顕現などが実際におこる世界を舞台にリアリズムで物語を進めていく例の手法。天使の降臨を追いかけるライトシーカーたちは、まるで竜巻を追いかける科学者みたいだ。ただ骨格となる神をめぐる思弁が、日本人にはリアリティがないので今一つ追いかけきれず、結末も腑に落ちない。繊細な感情の動物である人間に対して、気まぐれで杓子定規な原則主義者の神ということか。

◯『顔の美醜について』

容貌の良し悪しが認識できなくなる「美醜失認装置」が開発された近未来が舞台。ある大学での、この装置の義務化の是非を問う選挙の行方をメインの物語にして、様々な立場からの短い発言をパッチワークのように並べた作品。ストーリーの面白さはないが、顔の美醜をめぐる思弁は、貴重で役に立つものだ。ここでも、架空の科学的設定を出発点とするリアリズムと微妙な人間心理が描かれる。

新宿思い出横丁と『永続敗戦論』

今回の帰省では、喜多方ラーメン坂内ばかり食べていた。立川店、有楽町店、そして新宿思い出横丁店。坂内は、とろけるようなチャーシューが特徴なのだが、カウンターだけの小さな思い出横丁店は、歯ごたえのあるチャーシューが、それも他店の倍くらい入っていた。

新宿には何度も来ていても、思い出横丁を意識して歩いたのは、初めてである。路地に面したカウンターだけの小さな飲食店をのぞきながら、ふと『永続敗戦論』のことを思い出した。この本は4年ばかり前に出版されて、評判になったものだ。著者は若い学者で、レーニン論でデビューしているから、元気をなくした左翼陣営の期待の星として必要以上にもてはやされたところがある。内田樹ですら、対談本を出している。

ただ読んでみて、あまり感心するところはなかった。特にうんざりしたのは、エピローグで披露された思い出横丁でのエピソードだ。著者が思い出横丁で飲んでいると、アメリカ人の観光客の若者が入ってくる。すると一人酒の60過ぎの親父が、突然アメリカが大好きだといって握手を求めた、というそれだけの話である。

ところが、著者は「ムズムズするような不快感が腹の底から湧き上がってくるのをはっきりと感じていた」と書く。彼の理屈はこうだ。戦争の焼け跡と闇市をルーツにしている場所で、街を焼いた張本人の末裔に愛想をふりまく親父は、日本人として「下劣」ではないか、と。

腹の底から、あほかと思う。明らかに戦後生まれの親父を含め、戦争の当事者はそこには誰もいない。都合よく当事者に成り代わって、他者を裁くことなど誰にもできないはずだ。なるほど考える自由はあるだろう。しかし、手前勝手な理屈や物差しを振り回して、生身の人間を「下劣」と断罪するような人間は、書き手として低劣である。

当時は、著者の文章に不快感を抱くだけだった。しかし今なら、『観光客の哲学』に従って、アメリカの若者と飲んだくれの親父との「出会うはずのないものの出会い」に希望を見出すことができるだろう。本物の書き手も存在するのだ。 

鳥たちと出会う瞬間

めまいはなんとかおさまったが、凍てつくような寒さである。無理に用事を作って、昼休み外にでる。用水路の脇の道を歩いていると、水路の擁壁の上で、セキレイが争っているのを見つけた。セキレイは、尾が長くスマートな小鳥で、ハクセキレイが地べたを歩く姿をよく見かける。しかし、今回は、カササギを小さくしたような黒白の優美なセグロセキレイと、胸の黄色が目立つキセキレイだ。彼らは気が荒く、縄張りのとりあいの最中だろう。

そこへ、一回り大きい鳥が割り込んでくる。よく見るとふっくらした灰色の身体に細かいウロコ模様が入っている。オスならば濃紺の身体に紅色の胸をもつイソヒヨドリの、とても地味な体色のメスだ。識別の難易度は高いかもしれないが、僕はほがらかにさえずるイソヒヨドリが好きな鳥なので、動きからそれとわかった。

不意に背後の林から小鳥の声が聞こえたので振り返ると、グレーの身体に黒いネクタイをしめたシジュウカラが、せわしなく枝で動き回っている。その近くにすうっと舞い降りたのが、細かいまだら模様のキツツキのコゲラだ。

5羽の鳥たちの交錯は、わずか数十秒の出来事だろう。それぞれは特に珍しい種類ではないが、彼らの偶然の邂逅に立ち会えたのはうれしかった。あたりまえの風景や日常のなかに、多様性や豊かさをみとめるのは、そんな瞬間をのがさない目なのだろう。帰り道には、すでに鳥たちの気配はなかった。

ストーブ1号2号

外出から帰ると、玄関でいつものストーブ1号とストーブ2号のデコボココンビが出迎えてくれる。1号は、背の高い円筒形のハロゲンヒーター。2号は、小ぶりだが多機能の優れものだ。

妻は昔から,多少強迫神経症気味で、気になることは何度も確認しないと気が済まない。ドアの鍵は、今でも3回くらいはガシャガシャしたり、回した鍵の水平の向きを指で左右になぞったりしている。エアコンは気にしないのだが、電気コードにつながれたヒーターは生き物みたいに恐れていて、コンセントから外して息の根を止め、リビングから玄関先まで運んでおかないと、外出の時は安心できないらしい。でも、出がけに「1号よし、2号よし」と呼びかけている姿を見ると、どこかペットを可愛がってるようでもある。

精神分析では、神経症は子供時代の体験に根を持っていると言われる。小学校のとき両親が離婚したり、ひどいイジメを受けたり大変な経験をしているのは間違いない。ただ、一生懸命二人の子供を育てるなかで自分に自信をつけて、強迫傾向もある程度落ち着いて来たような気がする。

それが、最近さらに確認の回数が減ったのだそうだ。観察眼に優れた次男の意見では、車の運転の練習を再開したのが原因だろうという。なるほど、車では信号や交差点など即座に判断しないといけないし、課題は次々にやってくる。運転が、一種の行動療法の役目を果たしているのは確かだろう。「頭の中で、ホックがパチッとはまるようになった」と妻はうれしそうに言う。

『あなたの人生の物語』テッド・チャン 1998(その3)

この小説を原作とする映画『メッセージ』(原題はArrival)をビデオで見た。原作と比較しながら見たために、純粋に映画自体に入り込めなかったかもしれない。普通に見ていたなら、上質なSFとしてもっと楽しめただろうと思う。

映像になると、異星人や彼らとの接触に至る過程の描写の比重が大きくなる。原作にない巨大な宇宙船のビジュアルも圧倒的だ。主人公が軍の一部による先走った宇宙船への攻撃に巻き込まれたり、国際政治の緊張の中で中国を筆頭として宣戦布告の危機が生じ、それを主人公の活躍が食い止めるという活劇的な要素が付け加えられている。そのかわり、原作の中心だった言葉をめぐる思弁的な議論が削られていて、ストーリーを彩る一要素に後退している。

ヘプタポッドの言語については、必要最小限の説明にとどめている。時制がないから時系列もなく未来を知ることができる、というのは直観的にわかりやすい説明だと思う。言語が思考を規定するという理屈にもさらっと触れている。原作では、ヘプタポッドの言語の習得によって、自らの未来を知るという能力が獲得されるという設定になっていたが、映画では、主人公がヘプタポッドとの交流を通じて一時的に未来をのぞくことができたように描かれる。「未来を知る」「時を開く」というヒントがヘプタポッドから与えられるのだ。

原作では無造作に並べられていた本編と未来のパートの断片を映像でどう処理するのか、興味があった。あらかじめプロローグで未来パートを圧縮して示しておいた上で、ヘプタポッドとの接触が深まる中で、主人公の幻聴やフラッシュバックとして導入するのは映像ならではの自然な手法だ。気を取り直してからの「あの娘は誰」というセリフは、本編との関係をさりげなく示している。また原作では25歳での娘の事故を、もっと子どものうちの病死に変更しているのは、主人公の見た目の変化を目立たせないためだろうか。

原作では、未来との関係も「記憶」という受身の関係に限られる。映画では、未来との同一化によって、ヘプタポッドの言語を解読したり、中国の将軍を説得したりして、未来を知ることの効果を劇的に表現している。異星人の訪問の目的についても、原作では「観察」や「交換」等の示唆はあるが、結局はよくわからない。しかし映画では、3000年後に人類の助けが必要だから今の人類を助けに来たと、ヘプタポッド自身に明快に語らせる。

総じてハリウッドの娯楽映画の文脈に、原作の素材を落とし込んでいるという印象である。映画作品は、因果律的な世界観をゆるがないベースとしている。この意味では、そこからの離脱をテーマとする原作とは、力点の全く異なる作品に仕上がっている。Arrival(到来、出現)という原題は、むしろ正直にそれを告げているのだろう。

 

古建築は大地にうずくまる甲虫である

普門院の境内に入ると、そこには不穏な空気が漂っていた。石灯籠は倒されて、池の水は干上がっている。本堂に上がる石段は、大きく波打っており、大樹の切り株ばかりが目立っていて、造成地のようなガサツな雰囲気になっている。

7月の九州北部豪雨のために、裏山から境内に土石流が流れ込み、重要文化財の本堂にも縁の下が土砂に埋まる被害があったそうだ。現在は、境内の土砂は撤去されたようだが、重機での作業のためか大木も多く切られており、いっそう荒れ果てた印象をうける。
そんな中で、鎌倉時代建立の本堂は、老いた甲虫のようにうずくまって、この事態に耐えている様子だった。三間四面(柱間が三つの四面で正方形)の典型的な小堂だが、前面一列に吹き放しの柱が立って、向拝(正面の庇)を支えている。禅宗様のような細かい意匠はない和様の建築だが、単なる仏像の容れ物ではない、建物それ自体の強い存在感がある。近世以降の小堂には感じられないこの感じはどこからくるのだろうか。
一目でわかるのは、小堂に不釣り合いなほどの木割(柱)の太さ、組物や縁側などの材の大きさ、厚さである。また、宝形造のシンプルな屋根の本瓦葺きの重厚さである。これらの素の部材が、それぞれ時代を感じさせる表情を見せて、命あるものの存在感を示している。禅宗様が細かい部材の繊細な組み合わせで建物に生命を通わすのとは、また別のアプローチだろう。
優れた古建築は、大地にうずくまり、また伸び上がる甲虫のようだ。この印象は、中学生の頃初めて寺院めぐりした当時から、ずっと変わらない。
 
 

『あなたの人生の物語』テッド・チャン 1998(その2)

主人公は、ヘプタポッドの文字群をマンダラのようだと述べている。前回書いたように、言語の形式的な特徴のみで未来をのぞくことは難しいとしても、この言語に宿る実質的な別の力によってそれが可能になるのではないだろうか。人類がもつもので、この言語に近い存在は宗教だろう。

明治の宗教家清沢満之(1863~1903)は、『宗教哲学骸骨』の中で、宗教をだいたい次のように説明している。これは僕には、とても明晰で納得できる定義だ。

宗教は、有限が無限に向き合う関係である。宇宙の万有(有限の全体)は有機的な組織をなしていて、それぞれの有限がその固有の本性と働きを実現するためには、他の一切の有限はそのための器官になる。宇宙の中のある一つの有限が主人になるときには、他の一切の有限は家来となって、互いに従属しあう。どの有限を主人としても、その主人と家来の関係で無限の全体を尽くすことになるが、内部の関係においてはそれぞれ異なっている。これを「主伴互具の関係」といい、宗教の要は、この関係を自覚し了解することにある。

この定義に基づいて、この小説にかかわる問題を考えてみよう。有限が有限とかかわる場面では、因果律と「逐次的認識様式」で足りるだろう。しかし有限が無限と向き合うためには、ある種の「同時的認識様式」が必要になる。無限とは、その定義上、空間的にも時間的にもその一切なのだから。その一切と現にかかわっているという事実を、同時的に認識する課題は、しかし普通に考えると不可能である。この不可能を超えるのが、宗教の本質なのだろう。たとえば、曼陀羅は、無限を象徴的に図像化したものだ。作者は、ヘプタポッドの言語をむしろ曼陀羅から着想したのかもしれない。作者は初期の短編『理解』で、「わたしはひとつで全宇宙を表現する巨大な象形文字のことを思って、楽しんでいる」というセリフを書き込んでいる。

すると、言語の特別な特性からだけではなく、むしろ宗教的と呼べるような態度変更によって、未来を知ることができるようになったと考えるべきことになる。実際主人公の発言は、この態度変更が起きたことを告げている。「未来を知ることは自由意志を持つことと両立しない。選択の自由を行使することをわたしに可能にするものは、未来を知ることをわたしに不可能とするものでもある。逆に未来を知っているいま、その未来に反する行動は、自分の知っていることを他者に語ることも含めて、わたしはけっしてしないだろう。未来を知るものは、そのことを語らない」

しかし、そうであるなら、主人公の獲得した能力が自分の人生の範囲に限定されているという設定は、通俗的関心にとって了解しやすいものとはいえ、中途半端な印象を免れない。さらにいうと、個人の人生における事細かな事実の認識というものも因果律の世界での関心事であって、まったく異次元であるはずの同時的な認識のもたらす成果にはそぐわない気がする。

小説では、絶えず挿入される娘とのエピソードが、それが未来形で書かれているということと、時系列がランダムであるということが少しづつ読者の違和感をつのらせる原因となっており、結末において、この宙に浮いたようなエピソード群がすべて「未来の記憶」であることがわかって衝撃を与える構成となっている。それはある程度は成功していると思えるのだが、しかしこれが、過去を振り返るときの一般的な回想とまったく同じ形式(ランダムであることも、回想する者が特権的に「未来」を知っていることも)であることはどうなのだろうか。時系列的に認識の時点が違うだけで、その内容がまったく同じだというなら、真の意味で認識や態度の変更が起きているとは言えないのではないか。これはそもそも「未来を知る者は、そのことを語らない」という設定にも関わらず、この小説が主人公の「語り」で成り立っているという根本の矛盾に由来することかもしれない。

『あなたの人生の物語』テッド・チャン 1998(その1)

僕にはもう10年以上やっている少人数の勉強会がある。毎月開催が理想だが、何年もあいてしまったこともある。今のメンバーは、文学、映画、現代美術が専門のAさんと、映画など映像関係が専門で博覧強記のYさんと、三人でやっている。多少の批評好きという程度の僕が、基本的にテーマを設定し、レジュメを切って、あとはプロの二人に自由に語ってもらうという趣向だ。素人の特権である任意のテーマ設定が、苦しくもあり、何よりの楽しみにもなる。

今月は、先月の会でYさんが面白いとつぶやいたこのSF短編とその映画化作品『メッセージ』を扱うことにした。レジュメづくりのプロセスを「逐次的に」記録しようと考えたのだが、会合はもう来週に迫っている。付け焼刃はいつものことだ。まずは短編を読んだ感想をメモしておこう。

はじめに走り読みしたときには、ここに言語学や哲学、宗教の問題が真正面から扱われているのがわかったので、できたら関連の文献にもあたって、そういうテーマで報告できるのではないか、と思った。しかしやや丹念に再読してみて、考えが変わったところがある。小説は哲学書ではない。いかに哲学的なテーマを扱っていても、読者を置き去りにして、あらゆる常識を疑う哲学的思考を展開するわけにはいかない。娯楽作品としては、我々の通俗的な関心や常識を前提にしたうえで、目新しいSF的な設定や哲学的な問題をいわばスパイスとして読者を魅力的な架空の物語に導くことが目的なのだ。著者の物語づくりの手際こそ味わうべきなのだろう。

では、この小説の(誰でも了解できるという意味で)通俗的な関心とは何か。「未来を知ることができるか」「未来を知った人間はどうなるのか」ということだ。こういう関心がテーマなら、ふつうはタイムマシンが登場するのだが、そういう特別な装置ではなくて、特別な言語の使用自体が未来を知る手段になる、という発想が目覚ましくて、旧来の通俗的関心を押し隠しているところがある。

ここで、このブログの常連である『中動態の世界』から引用してみる。「社会や歴史という場を必要としない言語決定論、すなわち言語が直接に思考を決定づけるという考えは、ソシュール言語学を極度に単純化する形で述べ立てられ、一時期大流行した。それは一言でいえば、言葉があるから現実を認識できるという考えである」(P112)國分は、この考えに基づく社会構築論を「大袈裟な理論」として批判するが、たしかに80年代には、言語が変われば現実も一変するという考えが一世を風靡していた記憶がある。この小説の設定は、あきらかにこの世界的な思想潮流を背景にしているだろう。

しかし未来を知るような認識をもたらす言語を人類が持っているのは無理がある。だから、ヘプタポッドと呼ばれる異星人の言語を習うことで、主人公が特別な能力を得るというSF的設定が作られているのだ。ここで異星人の言語をめぐる言語学的な説明をざっと要約してみよう。

ヘプタポッドは、音声で話す言語と文字で書く言語との二つの別個の言語(二元的文法)を使う。人類の言語は、前者が一次的で後者が二次的なものと考えられるが、ヘプタポッドの場合は後者がむしろ本来的な言語だ。

ヘプタポッドの文字言語(表義文字)は文節をもたず、音韻も持たない。語順からも自由である。順序や因果関係の概念もない。

人類の言語が「事象の時系列的、因果律的解釈」に基づくものだとしたら、ヘプタポッドの言語は「事象の目的論的解釈」に基づいている。前者は「逐次的認識様式」を発達させるし、後者は「同時的認識様式」を発達させる。

それでは、このような言語の使用は、この小説が描くように未来を知ることを可能にするのだろうか。ヘプタポッドの言語では「第一本目の線を書きはじめるまえに、全体の文の構成を心得ていなくてはならない」という。つまり、考えながら書くのではなく、あらかじめ考えてしまったことを書く、ということだ。何事に対しても予めわかってしまっているという態度をとることと、実際に未来が既知のことになるということは、しかしまったく別のことだろう。予言者が、実際に未来を予言できるわけではない。同時的認識様式ということで思い当るのが、映像記憶についての特別な能力者のことだ。一瞬見た風景を後から細部まで正確に描き起こす能力は、因果的ではない同時的な認識に基づくものだろうが、彼らの能力が未来の風景に届くことはないだろう。

作中で列挙されるヘプタポッドの言語の形式的な特徴だけの力では、未来を認識することは難しい。この小説では、異星人との交流というSF的設定が、この論理の飛躍を自然なものに見せているのだ。

キッザニアのマーケティングに学ぶ

キッザニアの立ち上げから関わってきたマーケッターの関口陽介さんの話を聞く機会があった。キッザニアは、主に小学生を対象にして、リアルな職業体験を提供する教育娯楽施設で、今大変な人気だそうだ。ライバルの多い子供向けの施設の中で、独自の市場を獲得するために実際に行ったという、ポジショニングマップを使ったターゲットの絞り込みが興味深い。

まず縦軸に、教育と娯楽の対立項を置く。次に横軸に、ファンタジーとリアルという対立項を置く。すると、ディズニーランドは、娯楽とファンタジーが重なる象限で、圧倒的な力を持っていることがわかる。教育とファンタジーが重なる象限にはレゴランド、娯楽とリアルが重なる象限にはハウステンボス等の競合施設がすでに存在する。しかし、教育とリアルが重なる象限にはライバルがいない。そこでキッザニアは、実際の航空会社やハンバーグショップや運送会社に「出店」してもらうことで、ママゴトではないリアルな職業体験(キャリア教育)を売り物にすることに成功したのだ。

たとえば、大井川歩きに何らかの価値があるとして、それをきわだたせるためにどんなポジショニングマップを作ることができるだろうか。対抗軸として、デジタルとアナログとか、健康と教養とか、生活と娯楽とか、すぐに思いつくけれども、うまく組み合わせることができない。本物のマーケティングであれば、徹底したメンバー間のディスカッションによって、ライバルのいないポジショニングを見つけるのだそうだ。僕は大井川の風物と対話しながら、じっくり考えることにしよう。