大井川通信

大井川あたりの事ども

高島野十郎の絵

 福岡県立美術館高島野十郎(1890-1975)の展覧会を見にいく。大規模な回顧展を見逃したりしていたので、ずいぶん久し振りに彼の絵を観た。

 知り合いの現代美術家高島野十郎の絵とかつまらない、と言っていたが、何の変哲もない風景画としてみればそのとおりだろう。しかし、実際にみると、彼の絵は面白い。何か確かで、豊かなものを味わった気がして、満足して美術館を後にすることになる。多くの人にとってもそうだから、人気があるのだろう。

 今回、キャプションで、彼が絵画について「慈悲」と捉えていたことを知った。書き込みのある手持ちの仏教書も展示されてあった。詳細な思想の中身についてはわからなくとも、彼の絵にのぞむ姿勢を知る上で、ヒントになるものだと思えた。

 彼の風景画は、自己の主観で切り取られたものではない。偏狭な感性やコンセプトを投影したものではない。かといって、自然のありのままを即物的に写し取ったものでもない。画面の端々までていねいに描きこまれた細部は、いわば超越者のまなざしを受けて、等しく生命の輝きを宿している。

 彼には闇を照らす蝋燭や月を描いた連作があるが、モチーフの繰り返し自体を目的化しているような感じはしない。観る側の評価を当て込んで、その効果を計算したものではないのだ。蝋燭や月影に、直に、やむにやまれず向き合っている印象がある。

 野十郎の描く木々の枝は、一本一本が生き物のようにうねっている。大げさなように思えたけれども、雑木林を歩くと、それが実際の姿なのに驚いた。それ以来、僕の中で樹木の見え方が一変してしまったのを感じている。

 

『若菜集』 島崎藤村 1897

読書会の課題詩集として読む。そうでなければ、絶対に手に取ることのない詩集だったと思う。文語で七五調の韻文というもののハードルはやはり高い。

しかし、3作好きな詩を選ぶという事前課題によって、時間をかけて読み進めていくと、若き島崎藤村(1872-1943)が、実験的にいろいろな主題や形式にチャレンジしているのがわかって、面白く読み取ることができるようになった。文庫本のやや古い解説では、「永遠の青春性」とかを持ち上げているが、そういうありきたりな観念は意外と古びやすい。むしろ、試行錯誤や技巧のあとが、新鮮で面白い。

たとえば、「六人の処女」という連作があって、それぞれ違った境遇の乙女による自分語りの詩が並んでいる。その中でも「おつた」が面白かった。

彼女は孤児で、若い聖(ひじり)に育てられる。相手は聖だから、禁欲の言葉を彼女に伝える。しかしなぜか彼女はそのつど「かくいいたまふうれしさに」と平気で禁を破った上で、大胆にも聖にそれをすすめる。すると聖も聖で、それを受け入れた上で、こんなにいいものなら「などかは早くわれに告げこぬ」とのたまうのだ。

柿、酒、歌、恋、と二人で次々と禁を破った上での最終連、どうオチをつけるのかと思いきや、彼女は道端で「雪より白き小石」をひろう。若い聖は、最後にはまともに、これは「知恵の石」だとのたまう。それで彼女はこの石を「人に隠して今も放たじ」、と密かに大切にしていると言ってこの詩が終わるのだ。

めちゃくちゃで破天荒な展開だけれども、最後によくわからないながら妙に納得させられる。人間は、様々な放縦の果てに、かろうじて真実を手にするという比喩だろうか。

鶏のカップルの前に、見知らぬ雄鶏が現れ、決闘で夫を殺し、妻を奪うなんて詩もあった。丸山薫の詩みたいなクールな寓話もあったりする。

 

たかが棒、されど棒

地元のある集会に参加した。被差別当事者の運動体の研修会である。めったにない機会だったので、面白く楽しめた。

こうした運動団体、政治団体、宗教団体の例にもれず、参加者は高齢化している。主力は70代、60代で、ごく少数の「若手」といっても40代以上だろう。日本の高度成長の過程で顕在化した切実な格差や問題点に向き合ったのが、これらの団体だったのだ。ある程度の「豊かさ」を実現した社会で、次につづく世代を引きつけるのは難しい。

また運動のスタイルや発想が、ある時期大きく変わってしまって、それに十分対応できなかったのも大きい。一つには、マルクス主義の権威の失墜の前後。もう一つは、今も続く情報化の大波の前後。

講演の後に、その場で懇親会があったのだが、こうした場でコミュニケーション力を発揮するのは女性たちである。初対面の僕にも、生年月日の占いをしてくれたり、お互いに家庭の内訳話をしたりして盛り上がる。

羽振りのよさそうな人も、子育てに苦労して昼夜働いている人もいる。ごく平凡に暮らしている人たちの、当たり前の暮らしや当たり前の願いを傷つけるようなことは、あってはならないとあらためて思う。

4人の子どもを育てた70代の奥さんは、若いころスポーツマンの旦那の浮気が絶えなかったという。旦那の浮気で離婚した若い奥さんと、目の前でちょっとした論争になる。年長のご婦人は、男なんてよそで遊びたい生き物なんだからと割り切って、夫を許すようにしたらしい。たかが棒、されど棒、なんだと。なんのことはない、下ネタである。

 

 

海をながれる河

詩人石原吉郎の命日と同じ11月14日に、ハツヨさんは亡くなった。62歳で亡くなった石原吉郎が生きていれば、ハツヨさんと同じ104歳になっていただろう。偶然、二人が同世代であることに気づいた。

昭和12年の結婚し、その後満州に渡ったハツヨさんは、敗戦後、4人の幼い子どもたちを連れて無事に引き上げることができたのを、「不思議なこと」と話す。

石原吉郎は、ロシアで敗戦を迎えると、ソ連に抑留され、強制収容所での過酷な労働を体験して、8年後に帰還する。本格的に詩作を始めたのは、40歳の頃だった。ただし、詩人は、バブル景気も、二つの大震災も、失われた30年も知ることなく、1977年にこの世を去っている。

硬質で難解な作品の多い石原吉郎にも、平易で美しい「河」という詩がある。若いころ気に入っていたイメージだが、今はいっそう魅せられる。

 

そこが河口/そこが河の終わり/そこからが海となる/そのひとところを/たしかめてから/河はあふれて/それをこえた/のりこえて さらに/ゆたかな河床を生んだ/海へはついに/まぎれえない/ふたすじの意志で/岸をかぎり/海よりもさらにとおく/海よりもさらにゆるやかに/河は/海をながれつづけた

 

平等寺の歌姫

田中好さんからメールがあって、ひさのの住人ハツヨさんが亡くなったという。ちょうど一週間ばかり前にお伺いしたときに、眠りの合間に少しだけ声を聞いたところだった。

ハツヨさんは、大正3年(1914年)の104歳。昭和初めの頃の村の盆踊りでは、声のよく通るハツヨさんは歌姫として、なくてはならない存在だったそうだ。平等寺のひばりとも言われたらしい。

その頃、村にマモルさんという青年がいて、器量よしのハツヨさんに夢中になって、さんざん追いかけまわされたけれど、相手にしなかったとハツヨさんは楽しそうに話してくれた。マモルさんは馬車引きになって、ずいぶん若いうちに亡くなったらしい。

平等寺にはミロク山という姿のいい山がある。山上にはオダイシサマを祭った大きな岩があって、村人たちの暮らしを見下ろしている。村人たちが亡くなると、きっと魂はミロク山に帰るのだろう。

80年以上、山の上で待ちくたびれていたマモルさんは、今頃ハツヨさんにうまく言葉をかけているのだろうか。

 

 

物言えば唇寒し秋の風

芭蕉の句から転じて、人の悪口(自分の自慢)を言えば後味の悪い思いをするというたとえや、余計なことをいえば災いを招くというたとえで使われる、と辞書にはある。

僕は以前から、苦い思いでこの言葉をかみしめることが多かった。現に今日もそうだ。ただその時の感覚のニュアンスは、辞書の説明とはちょっと違う。

人の悪口も自分の自慢も、その時は得意になって話しているのだ。あとで虚しくなったり、後ろめたく思っても、十分モトはとっている。ついうっかり余計なことを言って、それが自分に不利に作用してしまったら、ひたすら後悔や反省をするしかない。

僕が、ふだん困るのは、そんなことではない気がする。会議の席で、何か発言しないといけない空気になっているとき、自分なりにいい思い付きが浮かんだ気になって、調子よく発言してみる。

そんなときあまり手ごたえがなかったり、すこし微妙な空気になってしまったりすることがよくあるのだ。無防備に自分の姿や言葉をさらしたあとだけに、まさに冷や水を浴びせられたような気になってしまう。本当は、唇がさむいどころではないのだ。

しかし考えてみると、唇は、言葉を話すのになくてはならなくて、しかもとても柔らかくて繊細な部位だ。理屈だけの句に見えて、口をつぐんだあとに我にかえり外気の冷たさを唇に感じるという観察は筋が通っている。さすが芭蕉

 

 

悲しみはかたい物質だ 

別の詩を探していて、この一行に目が釘付けとなった。石原吉郎(1915-1977)の「物質」という詩。

今の僕の思いとは少し距離があるけれども、こんな詩に再会すると、石原吉郎の詩集をていねいに読んでおきたい、という気持ちになる。そんな気持ちのまま、何十年も生きてきたのだけれども。(命日が11月14日ということを、今回偶然知る)

はじめの三行が印象に強く残っていたが、書き写すと、四行目の「手づかみ」以下の比喩が意外によかった。いつか、後半にやや無造作に繰り返される「拮抗」という言葉にひかれる日がくるかもしれない。

 

 悲しみはかたい物質だ

そのひびきを呼びさますため

かならず石斧でうて

その厚みは手づかみでとらえ

遠雷のようにひびくものへ

はるかにその

重みを移せ

悲しみはかたい物質だ

剛直な肩だけが

その重さに拮抗する

拮抗せよ

絶えず拮抗することが

素手で悲しみを

受けとめる途だ

 

 

猫と私と、生まれなかった兄と

休日の昼間に、通信教育で四教科の試験を受けた。ネットで該当のページを開いて待機していると、指定の時間に問題文が見られるようになり、50分で回答を作成する。便利な世の中になったが、本当に久しぶりの試験で、だいぶ消耗してしまった。

と同時に、頭に変なスイッチが入り、活性化してしまったところもある。夜の散歩の途中で、不意にこんなことが思い浮かんだ。

僕は、死んだ人のことや、死にゆく人のことを考えている。しかし、僕自身もやがて死にゆく存在であり、いずれ鬼籍に入る人間だ。他者や外国人といっても、同じように言語を使い、思考し、喜怒哀楽をもつ存在だから、まあ似たようなものだ。自分が自分について考えるような、微妙で繊細な思考は、今の僕には耐えられない。

もっと明確に異なるスタンドポイントがなければ、暮らしの中で考えをつないでいくことは難しい。それには猫がいいだろう。本当は、トンビでもゲンゴロウでも、路傍の石仏でもいいのだが、やはり身近な家族といえる九太郎がいい。

彼なら、言語を持たず、自意識の構造も僕たちとはだいぶ違っているだろうし、経験する死の意味合いにも違いがあるだろう。

これで、自分から距離を置いて思考するよりどころが手に入った。でもまだ足りない。もっと遠くから、僕をみすえる場所がほしい。

僕には、生まれなかった兄がいたらしい。まだ両親が子育てできる準備が整わなかったので、中絶せざるを得なかった事情を、間接的に聞いていた。もし彼が生まれていたら、僕より何歳か年長の彼がどんな人生を経験したかは、ばくぜんと想像することができる。

またそうなっていたら、両親の経済的な事情からいって、僕は確実に生まれていなかっただろう。(そんな極端な想定でなくとも、受精のタイミングが少しずれただけで僕は生まれなかっただろうが)

だから、生まれなかった兄について考えることは、生まれなかった僕を考えることでもある。生まれなかった僕は、当然、死にゆくことも、実際に死ぬこともできない。これは、想定できる中では、今の僕から一番遠い僕だ。

そんなわけで、僕は、猫の九太郎と、生まれることのなかった兄のことを考えながら、僕自身の生や死について考えをすすめようと思う。

ここまで考えたら、ちょうど家の玄関が見えてきた。

 

仏壇のゆくえ

旧玉乃井旅館の安部さんの書庫には、亡き友人のためのコーナーがある。その小さな書棚には、考古学を専攻していたという安部さんの親しい友人亀井さんの形見の本が並んでいるのだが、僕は以前から、その薄暗い一角が仏壇のように思えていた。

仏壇というのは、亡き人の位牌があって、毎日の生活の中で故人を忍び、故人と向き合うための装置だろう。もちろん遺影が何より故人を忍ぶよすがとなるが、本好きにとっては、その人の趣味が反映された蔵書というものは、人格を彷彿とさせるものだ。

昨年、母親が亡くなり、実家を引き払う話が出た時、仏壇をどうするかということになった。僕が引き取るように頼まれたりもしたのだが、結局は姉の家に落ち着くことになる。

両親が亡くなって、親不孝で器量の小さい僕にも、ようやく両親への感謝の気持ちが強くなった。それで、父親の蔵書を運んだりして、仏壇替わりの両親のコーナーを作ろうと考えていた。それで今日、ようやくそれを形にできた。

本体は書棚ではなく、キッチンで、レンジや炊飯窯を載せていたラックの再利用だ。やや汚れてはいるが、白いスチール製で明るい感じ。

上段には、萩原朔太郎中原中也の全集の何冊か。中段には、漱石の猫や荷風の濹東奇譚や中島敦など。母親の遺影と手造りの小物も並べる。下段には、父親が好きだった弥勒仏の頭部のレプリカ。父親が昭和20年代に描いた若き叔父の横顔のデッサン。実家の玄関で40年間風雪に耐えた木製の表札。

このラックを、両親を泊めたこともある二階の明るい畳の部屋に設置する。予想したとおり、自然と手を合わせる気持ちとなった。両親もきっと喜んでいてくれるだろう。

 

 

 

ある講演会にて

出口治明氏(1948-)の講演会を聞く。ビジネスマン出身の読書家で現大学総長という肩書は、ちょっと敬遠したいタイプではあるが、話は明快で面白かった。いかにも実社会で練れた人柄にも好感を持てた。

この30年間の日本の衰退は、新しい産業を起こすことができなかったことが原因である。そうなったのは、新しい世界の環境と産業創出で重要な柱となる、女性、ダイバーシティ(多様性)、高学歴(勉強)の三つについて、日本はどれも重要視できなかったからだ。それ以前の製造業モデルに過剰適応した結果だろう。

先日、30年前の長谷川慶太郎論を読んだが、そこで長谷川は、もの作りの現場に即して、日本の適応の優秀さを絶賛していたわけである。この製造業モデルは、現在では、資本主義礼賛論者からも、日本社会批判論者からも、評判が悪く、袋叩きにあっている。

出口は、生命保険業界の人だから、製造業モデルを外から批判するのはわかるが、この30年間の日本の動向には、当事者としてかかわってきたはずである。明快な批判に、どこか軽さやうさんくささがつきまとうのはそのためだ。