2010年に文庫化されたものを購入していた。講談社学術文庫やちくま学芸文庫なら学術書扱いで別にまとめてあるが、新潮文庫だから本棚の奥深くに埋もれていた。偶然見つけて読んでみることに。
面白かった。解説の三浦雅士が、まぎれもない名著だといい、若いうちにこの本に出会う人がうらやましいと書いているが、おおげさでなく共感する。その理由として、「西洋の思想の歴史、とりわけその根幹であるいわゆる哲学の歴史が、鷲づかみにされていること」をあげている。
つまり、ここまで全体のありさまがわかっていたら、哲学や思想の道に踏み迷って無駄な時間を使うこともなかったのにということだろう。この鷲づかみのかなめは、日本人にはそもそも西洋の哲学はわからない、わからなくて当然だというものだ。わからないことをわかったふりをすると、本当にわかるということがどういうことなのかわからなくなる。わからないものはわからないと突き放すことが肝心だ。
著者の議論を単純化するとこういうことになる。この世界の外に超自然的な原理を設定してそこから世界を説明すること(ソクラテス/プラトンからヘーゲルまで)こそ「哲学」という特異な思考なのであり、ソクラテスより前の自然的思考やニーチェ以降の「反哲学」とは、はっきり区別しないといけない。それをいっしょくたにして哲学として考えようとするから、「なにがなんだか分からなくなる」のだ。
著者自身がこういうことを広言できるようになったのも、長い哲学研究の中で50代になってからだという。それまでは、自分たちがあたかも西洋人であるかのような周囲に合わせて、わかったふりをしていたというのだ。(ただし、この戦中派の哲学者による大胆な違和感の表明が、今の若い世代にうまく伝わっているかどうかは、また別の話だ)
この勘所をおさえれば、超自然的思考としての「哲学」には決定的にわからないところがあるが、ニーチェ以降の「哲学批判」「反哲学」ならわれわれ日本人にもよくわかるという事態が飲み込めるようになる。ニーチェやハイデッガーが苦労して読み解くところが、日本人にとって失われた常識の確認であったりするわけだ。
日本の民衆宗教(とくに金光教)の哲学的含蓄を探ろうとする僕にとって、著者の示唆するところはとても重要で有り難い。わざわざ異国の難解な哲学を経由することなく平易な教えを通じてダイレクトに大切な知の核心をつかむことができるのだから。
考えて見れば、僕が大学入学後、初めて真剣に取り組んで目を開かされた哲学の入門書が、木田元(1928-2014)の岩波新書『現象学』だった。その後、ハイデッガー論などでもすいぶんと啓発されたが、しばらく著書から離れていた。書棚整理で偶然手に取ったことは僥倖というべきか。