大井川通信

大井川あたりの事ども

花月と東洋館

昨年家族の要望で、浅草で漫才を見たいというので、東洋館という寄席に入ってみた。とんでもなく下手な若手や、とんでもなく変なベテランが出演していたが、思ったよりずっと面白く、刺激的な体験となった。 

それで今日は、大阪に行くついでに、なんばグランド花月でお笑いを見ることにした。吉本興業の本丸で、出演者の名前も、観客の数も、施設設備も東洋館の比ではない。いやが上でも期待が高まる。

ところが、見ている最中から、あれ?と、拍子抜けした感じになった。もちろん、それなりに笑えた上での話である。子どもの頃から吉本新喜劇のテレビ中継を見ていたという妻ですら、浅草の方が面白かったという。

なぜなんだろう。他のことはともかく、人を笑わせることには自信がある、という人間のプライドにかけて、答えを見つけないといけない。

花月は、笑いを求める側と、笑いを提供する側との、言わば需要と供給が一致して、人とお金が集まる金ピカの場所になっていた。おもろいこと、が前面に押し出され、それが隅々まで張り巡らされた空間である。 

本来、笑いが生まれるのは、意外な場所や出来事においてであり、もともと笑えないモノやコトがベースにないといけない。予定調和の世界に ゆさぶりをかけ、その外に出るのが笑いだろう。

こう考えると、東洋館は笑いの条件にかなっており、花月はむしろ不利な場所であることがわかる。花月では、お笑い養成システム内でのスターやスター候補の漫才が特に残念な感じで、スキャンダルで叩かれた中堅や、壊れかけたベテランの存在が救いになっていた。

もう一つは、劇場の規模である。東洋館が200席に対して、グランド花月が900席。漫才は、そもそも目の前の人たちに話しかけるタイプの身近な笑いが原型のスタイルだろう。単眼鏡で表情を読み取りながらの鑑賞は、かなり無理があると思えた。 

 

 

 

『歴史的実践の構想力』 廣松渉・小阪修平 1991

今日は、廣松渉が亡くなってから、25年目の命日だ。お寺的にはどうかは知らないが、四半世紀というのはやはり大きな区切りだろう。

就職したての頃、雑誌から切り抜いた廣松さんの写真を壁に貼って、読書に励んだりした。訃報に接して、当時の職場で喪服を着て勤務したりもした。若気の至りとしかいいようがないが、自分なりの青春の姿だったのだと思う。

全共闘世代の在野の哲学者小阪修平(1947-2007)との対談本を読む。当時だったら、言いよどみながら自分の経験に即して語る小阪の方が、立て板に水みたいに教科書的な解説を加える廣松よりも「深い」、というように読んだのかもしれない。おそらく小阪自身が、内心そう感じてこの企画を主導したのだろう。

しかし、時の流れは残酷だ。ことあるごとに「60年代末の運動経験」を持ち出す小阪の議論は、ひとりよがりで底の浅いものに思えてしまう。50年の時間が、伝家の宝刀みたいな「60年代の経験」をすっかり相対化し、色あせさせてしまったのだ。その経験のリアリティのみが足場では、普遍的な理論にはとても届きそうもない。

一方、廣松の議論が古びていないことには驚く。小阪のあいまいな話を受けながら、正確に議論の筋を通そうとする真摯な姿勢が、かえって今になってよく見えるような気がする。

当時の廣松は、冷戦崩壊直後に、病をおしてマルクス擁護の論陣を張っていた。本当は小阪以上に、反時代的でアナクロな看板を掲げていたにもかかわらず、思索の根は、はるかに深く強固な地盤に届いていたのだ。

ところで、廣松らしい対談者への社交辞令や過剰な配慮が、この本のよみどころの一つだと思う。たとえば、こんな素敵な応対。

「おっしゃることはわかるつもりでして、体験的な場面とのつながりで具体的に承りたいと思います」

 

 

 

眼鏡の話

僕は、子どもの頃から視力がそこそこ良くて、2.0の時もあった。本は好きでも、実際に読む時間は短いことも幸いしてか、大人になって視力が目に見えて下がることもなかった。テレビゲームもしなかったし、仕事以外でパソコンをいじる趣味もなかった。

老眼で小さな活字が見にくいと感じ始めたのも、40代の後半になってからだから、人並みだろう。それでもなんとか我慢して、50代半ばに近づくまで、老眼鏡に手を出さなかった。出始めのハズキルーペを愛用したのは、それがメガネではなくルーペだったからだ。

なんとなく、視覚という重要な部分で、人工物であるメガネの力を借りるというのが気持ち悪かったのだ。しかし、それは勝手な思い込みだ。そもそも現代人の生命など、複雑怪奇な人工物の組み合わせの先に、かろうじて生き長らえているものにすぎない。生身一つ、裸一貫なんて言葉は、比喩としてしか成り立たないのだ。

実際に使い始めてみると、メガネに頼って視力が格段に悪くなり、メガネを忘れると何も見えないという事態となって、すいぶん不便な思いをするようになった。思い返せば、今まですいぶん楽をしてきたのだ。

しかし、悪いことばかりではない。老眼を意識するようになってからは、細かい活字の本が読めなくなって、本を選ぶときに活字のサイズがまず気になった。昔読んだ文庫本は概して活字が小さいため、読み返すことができなくなっていた。それが、ある程度鮮明読めるようになったのだ。

老眼鏡なので、本を読むとき以外は、耳にかけたまま、おでこの上に持ち上げておく。それを忘れてメガネを探したことが何度もある。ある時、ふと気づくと、おでこの上に二個の眼鏡を縦に並べてかけていたことがあった。メガネについては、今頃になって、定番のギャグを感心しながら学習中だ。

 

 

あの虹をこえて

妻の携帯電話が鳴る。勤め帰りの次男からのようだ。妻が料理で手が離せないので、僕が取ると、次男の興奮した声が聞こえる。

すごい虹が出ているから、見てみい。

デッキに出ると、まだ明るい夕方の空を、細く強い光の束が、サーチライトのように駆け上がっている。惜しいことに、大きな円を描いているはずの上部付近では色はかすれてしまっているが、反対側ではまた鮮やかな光の束に戻って、遠い町並みに足をおろしている。なるほど。見事な虹だ。

夫婦でながめていると、やがて次男が帰ってくる。駅を降りて気づいた時には、虹は大きくつながっていたと、その時の画像を見せてくれる。

こんな虹は生まれて初めて見た。アニメか漫画にでてくるみたいな虹だった。次男の興奮は収まらない。

たしかに、僕だって虹で感動した記憶など、長い人生でそう何度もなかった。今年二十歳になった次男が、人生ではじめてというのも無理はない。まして家族で虹を見上げた今日は、彼の人生で、いつか特別な日になるだろう。

 

 

フードコートの窃視老人

家族で、近所のモールに買い物に出かける。隣町に巨大なイオンのショッピングモールができてからは、わが町のモールはすっかり中高年向けの施設になってしまった。家族の待ち合わせ場所は、いつものようにフードコートだが、休日だというのに、目につくのは友人同士で勉強に来ている中高生の姿だ。

テーブルについて本を読んでいる時、ふとガラス越しに外を歩く知り合いの姿が目にとまった。大井村の超人ひろちゃんの娘さんだ。ひろちゃんは、型破りな元高校国語教師で、自家農園や養鶏や養蜂で自給自足の生活を行い、趣味の山歩きも魚釣りも盆栽も何でもこなすスーパーマンだ。なぜか家業で老人介護施設の経営までしている。あわてて扉に走って呼び止めると、家族を待つ間の話し相手になってくれた。

僕は、近所のファミレスで本を読むことが多いが、気分転換でこのフードコートを使うこともある。現に数冊の本と筆記具がテーブルの上に出してあったのだが、ひろちゃんの娘さんには、こんな騒然とした場所での読書が不可解らしい。

その時、一人の老人が、僕たちのテーブルの脇を抜けて、すぐ後ろのテーブルの椅子に座った。ひろちゃんの娘さんのちょうど正面に、老人の背中が見える位置関係だ。僕は、その時はまったく気に留めなかったが、少しして、娘さんが、この老人に関するクイズを出題する。

後ろの男が、何でその席にすわったか、わかりますか?

全くわからない。そう答えると、娘さんは、パンツが見えるからですよ、と教えてくれる。娘さんによると、娘さんの正面の方向に座っていた女の子の下着が、テーブルの下で見えているそうだ。(もちろん僕は振り向いて確かめるわけにはいかない)

老人は足早にやってきて、たくさんの空席があるにもかかわらず、目標を定めたかのように迷いなく女の子の正面を陣取ったそうだ。ガン見してますよ。背後からでも、老人が熱心にのぞいている様子がわかるらしい。

しかし、声のトーンを落とすでもない娘さんの言葉は、僕の斜め後ろにすわる老人の耳にも届いているはずだ。超人ひろちゃんに鍛えられた屈強の娘さんは、こうして老人に天誅を加えているにちがいない。

やがて老人は、すーっと席を立って消えていった。娘さんによると、女の子がカバンを前に置いたので、目的のものが見えなくなったからだというが、どうもそれだけではない気がする。こちらの会話に気づいていたら、いたたまれなかったはずだ。

さて、この話の教訓は、いくつかある。

僕たちは、一定年齢以上のお年寄りの生態にまるで無関心だ。女の子にしたって、若い男や中年男にじろじろ見られたら警戒するが、老人だから気にもとめなかったのかもしれない。しかし、娘さんは老人介護の仕事をしているから、お年寄りにこそ目が行くし、老人の行動や欲望についても知り尽くしている。あの老人にとって、それが運の尽きだったのだろう。

ところで娘さんが、はじめ僕を不審に思ったのも、こんな若者のたまり場に好んで来ているということで、あの老人の同類みたいに思われたのだと思い当る。僕には今のところ勉強という目的があるが、それは子どもの時に植え付けられた、勉強するべしという強迫観念に未だにとらわれているだけなのかもしれない。肉体的に勉強が耐えられなくなって、この呪縛から解放されたほうが、意外と楽に生きられるような気もする。

ただ、その時に、あの老人のようにならないために、自分を律する術だけは正しく身に着けておかないといけない、と肝に銘ずる。

 

タカラダニとナミテントウ

家の垣根のレッドロビンがところどころ虫害で枯れてしまったので、思い切って抜いてしまって、擬木のフェンスを立ててもらった。枯れてない木も伸び放題だったので、庭がだいぶ明るく、広くなったように感じられる。

レッドロビンの垣根については、家族のもめごとの種だったので、よけいスッキリした気分だ。剪定を人に頼む余裕はないが、面倒くさがり屋の僕は、妻から頼まれてもずるずると先延ばしにする。お互いのいらいらがつのり、けんかとなる。

息子たちが大きくなってからは、夫婦ゲンカを見かねて、自分たちでバッサリ切ってくれたのはありがたかった。しかし、近年は、虫害がひどくなったこともあって、まったくの手つかずだった。

人口木の板を何段も横に渡した板塀は、どうしても単調で閉鎖的になる。そこで、上から二段目は、曲線をあしらったアルミパネルを並べて、見通しが効くようにした。工事費がかかった分以上の見映えで、夫婦そろって何度も道から見上げて、うんうんと満足げにうなずき合う。見苦しいケンカのことなどすっかり忘れてしまって。

そうして朝晩飽きもせずに板塀をながめていると、ある時、塀の表面を微小な真っ赤な粒のような虫が、あちこちで歩き回っているのに気づいた。樹木ならともかく、樹脂の板の上である。不思議に思って調べると、タカラダニだった。家屋の周囲のコンクリートブロックなどで、わりと一般的に発生するらしい。人畜無害ということだが、とにかく目障りなので、せっせと駆除する。

ようやく、タカラダニが見えなくなった今日、小さな黒いゾウリのような形をして、お腹のあたりがオレンジ色の幼虫が、ぞろぞろとフェンスを上ってくる。何だかわからないので駆除しかけると、妻から、これはテントウムシの幼虫で、益虫ではないかと指摘される。なるほど。調べると、たしかにナミテントウの幼虫だった。フィールドワーカーの面目まるつぶれである。

樹木と間違えて上ってきたのだろう。エサに行き当たらないで、死んでしまうかもしれない。僕は、はがきの先に幼虫を載せて運び、隣のケヤキの太い幹で歩かせてみた。ここにはエサの油虫がいるかはわからないが、とにかく食いっぱぐれはないだろう。ケヤキの健康にだって多少はいいことがあるかもしれない。やがてケヤキから、たくさんのテントウムシが飛び立つ姿は素敵じゃないか。

僕は目につく限りの幼虫を、ケヤキにせっせと移し続けた。

 

『経済学のすすめ 私の体験的勉強法』 正村公宏 1979

自分自身の経済や経済学の勉強について、振り返ってみる。80年に大学に入学して、一年間マルクス経済学の原論の講義を、割と熱心に聞いた。永山武夫という労働経済が専門の先生で、素朴に製本した自分の講義ノートをテキストに使い、ひなびた感じの授業がよかった。

就職活動をして、実際に保険会社に勤務すると、経済の実際知識に触れることになる。「金融自由化」が取り沙汰されていた頃だった。

80年代の終わりに、自分なりに経済のことを勉強し直そうとしたときに、正村公宏(1931-)の本には助けられた。いわゆるマル経と近経との対立をこえて、わかりやすく道具としての経済理論を説明できる学者だったので。

当時は、佐和隆光(1942-)や飯田経夫(1932-2003)らの(近代)経済学の自己反省を含んだ本をよく読んでいたし、奥村宏(1930-2017)の法人資本主義論が面白かった。

冷戦の終焉やバブルの崩壊を受けて社会が動き出すと、経済の現場を自信ありげに語るエコノミストたちの本を手に取るようになる。「市場の声」なんてそれまで聞きなれない言葉が、マスコミを席巻していた。

その後も神野直彦(1946-)や小野善康(1951-)など、肌合いが合って理解できる学者の本に出会うと、その都度まとめて読んだりした。

このところ、自分史にからめて経済を語るというスタンスの本を二冊続けて面白く読めたので、思い出して段ボールの底からこの本を取り出してみた。30年前に書かれて、20年前に読んで印象の良かった本の再読だ。

残念ながら、前二著ほどの面白さはなかった。マルクス主義から出発して、近代経済学の立場に移行した歩みは興味深いが、旧世代の学者の節度からか岩井の本のような赤裸々さはないし、やはり著者の格闘した問題が過去のものになっているからだろう。

しかし、僕の親の世代にあたる著者の率直な言葉は、歴史の証言として重みがある。「大学へいく機会を与えられるという自分の特権は、それを与えられなかった人々の地位を改善するためにこそ使われるべきであるという責任の意識」というのは、後の世代からは感じられないものだ。

近代経済学は、いろいろ精密そうな道具をそろえてみせてくれますけれども、めったには独自の資本主義像を構築してみせてくれません・・・これに対し、マルクス経済学は、あまりにも素朴な道具しかもっていませんが、それでも、なかなか立派な丸太小屋を作ってみせてくれるのです・・・そのため、ある人々は、学生のころにその丸太小屋にはいり込んで以来、外に出てこなくなってしまい、外の世界を忘れてしまうことになります」

まじめ一方の著者の文章だが、この部分にはおそらく切実な経験に裏打ちされたイロニーが込められていて、笑ってしまった。

 

『初心者のための天台望遠鏡の作り方 屈折篇』 誠文堂新光社 1967

子どもの時の懐かしい蔵書シリーズ。ブルーの地味な表紙の薄い本と、再会を果たせて感無量だ。

1940年生まれのエコノミスト野口悠紀雄さんの本に、子どもの時、天体望遠鏡を自作したことが書いてある。おそらく、1950年代には、レンズ等を購入して、あとは自作するのが、天文好きな子どもには普通のことだったのだだろう。

本の中身は、書籍や雑誌からの記事を集めたもので、こんな調子の本文が続く。

「Nさん、いよいよお小づかいがたまって望遠鏡をつくられるとのこと、よかったですね。一生けん命に小づかいをためて望遠鏡を作り、星をのぞくよろこび。Nさん、これは星を愛する者にとって最高のよろこびでしょう」

僕が星に興味をもった頃は、1970年代に入っていたから、デパートには安価な子ども向きの天体望遠鏡の入門機が並んでいる時代だった。はじめて手にした望遠鏡は、学習雑誌の付録を組み立てたものだったけれど、お年玉をつかって一番安いメーカー品をデパートで買ったときは、本当にうれしかった。(その簡素な三脚の望遠鏡は、今目の前に置かれている)

それでも、この本を見ながら、自宅にあった古いレンズを組み合わせて、小さな望遠鏡を手作りした思い出がある。ラムスデンという形式の接眼レンズを作って、それが実際に使えたときには感激した。

おそらく今では、よほどの趣味人でもなければ天体望遠鏡の自作などしないだろう。モノづくりの時代の証言者のような小さな本だ。

 

 

分類法について

フーコー(1926-1984)は、『言葉と物』(1966)の冒頭で、中国のある百科事典の奇天烈な動物の分類法を紹介している。その分類では、動物を14のカテゴリーに分けるが、それは、「皇帝に属するもの」「芳香を放つもの」から始まり、「今しがた壺をこわしたもの」「遠くから蝿のように見えるもの」で終わる。

フーコーの解説書を読むと、この分類法が奇妙に思えるは、各項目が並び合うべき「共通の場」がもはや崩壊しているからだという。そこからフーコーは、物に言葉を与え、言葉を用いて思考するために必要な、この根源的な場所をエピステーメと名づけ、それが抽象的な原理ではなく、歴史的な日付においても、地理的な広がりにおいても限定されたものであることを明らかにしていく。

そこまで大袈裟な話ではないのだが、ブログを書いていて、カテゴリ-という機能が、書かれた記事の整理ということをこえて、書いたり考えたりすることに無意識の力を及ぼすことに気づくようになった。

初めは記事を書きためながら、それに見合ったカテゴリーを追加していく。記事が増えてくると、一つのカテゴリーの中から、新しいカテゴリーを分家させたりもした。気づくと、カテゴリーがちょうど20になったので、そこで打ち止めとしている。それができたのは、「言葉ノート」と「モノの話」という、何でも入る大ぶろしきのカテゴリーを手に入れたためだろう。

こうしてそろった20のカテゴリーの取り合わせは、「中国の辞典」ほどではないけれども、他者からみれば奇妙なものに思えるかもしれない。カテゴリー同士が並び立つ共通の場所が見えにくいのは確かだろう。その共通の場所が、僕自身の生活や経験であり、比ゆ的には、僕自身の無意識のエピステーメであると言っていいかもしれない。意図的、計画的に作り出したものではなく、二年間にわたる思考の軌跡がおのずと生み出してきたものだからだ。

すると今度は、カテゴリーの方が、僕が考えるべきことや書くべきことへの示唆を与えてくれるようになった。カテゴリーが、僕の生活を耕し、そこから何ものかを収穫するための手助けをしてくれるようになっている。

ブログを書きはじめた頃は、たとえ未熟でも、できるだけ自分の思考や感覚を文章に刻みたいと考えていた。今でもそれは変わらないが、それだけでは少し息苦しい。しだいに他者の言葉、中でも死者の声に耳を傾けることが多くなった。だから、自分でも意外だったのだが、死者の過去帳という意味の「点鬼簿」というカテゴリーが、目下のお気に入りとなっている。


白い象の恐怖

今の人は、花祭りといっても、何のことかわからないだろう。キリスト教で言えばクリスマス、仏教のお釈迦様の誕生日を祝うお祭りである。しかし、僕も、子どもの頃読んだ本でそんな知識を蓄えただけで、実際に花祭りというものを見たことはなかった。

そこはひなびた漁師町のはずれで、岬には神社がまつられている。道の突当りには堤防があり、その先にはものうい春の海がひろがっている。鳥居の下には、一群の花が咲き乱れている。

花々には、驚くほどの数のアサギマダラが優雅に群れている。この花の蜜には、メスを吸引する物質が含まれているそうだ。だからオスたちは、千キロに及ぶ旅の前に、交尾に必要な物質の補充に余念がない。そんな説明を、ボランティアの老人がしきりに耳元で繰り返す。

その時だった。町の方から、不思議な行列の一団が近づいてきたのは。

きれいに着飾った幼児を先頭に、大人たちが祭りの山車のような、紅白の幕で飾られた木の車を引いているのだ。車の前面には幼児が腰かけているが、その後ろに、白いゾウの張りぼてが、あたかも主役であるかのように乗せられている。

よく見ると、像の背には四本柱の厨子があり、生まれたばかりの釈迦の小さな像が、片手の指を天に突き出している。お釈迦様の誕生を祝う花祭りの稚児行列だ。

色彩といいい造形といい、異国情緒といっても中国をとばして、東南アジアかインドの風俗にいきなり出くわしたみたいだ。しかし、この稚児行列から繰り返し流れてくる童謡風の行進曲は、まぎれもなく日本の、遠い昭和の昔から、この行列が続いていることを証し立てている。

神社の鳥居の前まで来て、白い象の隊列はゆっくりと折り返すと、音楽のかすかな調べだけを残して、 立てこんだ町並みへと消えていった。