大井川通信

大井川あたりの事ども

大手拓次を読む

文学者の忌日にその作品を読むという取組は、ここ数か月、スルーに次ぐスルーを繰り返してきた。しかし大手拓次(1887-1934)は、せっかくの機会を逃したくない。

学生時代から魅かれてきたとはいえ、そこまで作品になじんできたわけではないが、近年の偶然の邂逅からぐっと距離が縮まった気がする。前橋の朔太郎記念館で大手拓次展に出くわすと同時に、地元の読書会で拓次の詩集が取り上げられたのは、ほんの数年まえだ。

読書会は新編集の岩波文庫だったが、今回は昔からある白鳳社版(1965年)の詩集にざっと目を通す。こちらの方がずいぶん読みやすい詩が集められている印象がある。まだ多くの資料が出そろう前の拓次のパブリックイメージ(幻想と怪奇の独身詩人)に合わせた選集になっているからだろうか。

今日で、大手拓次没後90年。

 

わたしの耳は/金糸(きんし)のぬひはくにいろづいて、/鳩のにこ毛のやうな痛みをおぼえる。/わたしの耳は/うすぐろい妖鬼の足にふみにじられて、/石綿のやうにかけおちる。/わたしの耳は/祭壇のなかへおひいれられて、/そこに隠呪(いんじゅ)をむすぶ金物(かなもの)の像となつた。/わたしの耳は/水仙の風のなかにたつて、/物の招きにさからつてゐる。 (「金属の耳」)

 ※縫箔(ぬいはく)刺繡と金銀の箔で文様をあらわした衣装。

 

わたしは足をみがく男である。/誰のともしれない、しろいやはらかな足をみがいてゐる。/そのなめらかな甲の手ざはりは、/牡丹の花のやうにふつくりとしてゐる。/わたしのみがく桃色のうつくしい足のゆびは、/息のあるやうにうごいて、/わたしのふるへる手は涙をながしてゐる。/もう二度とかへらないわたしの思ひは、/ひばりのごとく、自由に自由にうたつてゐる。/わたしの生の祈りのともしびとなつてもえる見知らぬ足、/さわやかな風のなかに、いつまでもそのままにうごいてをれ。 (「足をみがく男」)

 

いつさいのものはくらく、/いつさいのおとはきえ、/まんまんたる闇の底に、/むらがりつどふ蛙(かへる)のすがたがうかびでた。/かずしれぬ蛙の口は、/ぱく、ぱく、ぱく、ぱく、・・・・とうごいて、/その口のなかには一つ一つあをい星がひかつてゐる。 (「蛙の夜」)

 

 

 

 

 

 

天神で喜多方ラーメンを食べる

僕のきわめて貧弱なB級グルメ生活においても、それなりのドラマはある。僕が唯一その関わりが自慢できる「すた丼」のチェーン店が福岡天神に出現したこと、餃子の王将が地元に3度目の返り咲きを果たしてくれたこと、トマトラーメンの「発見」等々。

そして、とうとう喜多方ラーメン坂内のチェーン店が九州福岡に進出した。坂内は、かつてキャナルシティのラーメンスタジアムに出店していて、他の地域のラーメンとはまったく違う風味に魅了されていたのだが、退店後は、東京に帰省した折に食べるだけになっていた。

東京では隣街の立川にも出店していたし、都心だとかなりの密度で店がある。そこまでの人気店ではないので、昼時でもあまり並ばずに食べられるのもよい。

薄味でくせがなくさっぱりと食べやすいが、ラーメンとしてそこまでうま味があるものではない。ポイントは焼き豚だ。ふつうのラーメンでも、厚みのあるチャーシューが5枚入っているし、チャーシュー麺なら、丼を埋め尽くすくらい載っている。チャーシューの形状も味付けも店によって意外と違うのだが、基本的に麺とおなじく薄味で柔らかく食べやすい。このチャーシュー目当ての客が多いような気がする。

天神出店の情報は先月から得ていたけれど、はじめのうちは並びそうだしいずれ行けたらと忘れていた。妻に赤坂のアクセサリー屋さんへの納品を頼まれて、いざ帰ろうとしたとき、ふと喜多方ラーメンのことを思い出した。たしか天神でも赤坂寄りではなかったか。

調べると、地下鉄赤坂駅からは目と鼻の先だ。坂内のラーメンがこんな身近で食べられるのはうれしい。僕の職場からバスが一本で行けて、帰りも店の前のバス停から博多駅まで簡単に戻れる。アクセスは「すた丼」に負けないくらいだ。身体には坂内の方がよさそうだし、これからは選択がなやましい。

 

 

 

 

『光と風と夢』(中島敦 1942)から

・・静かだった。甘藷の葉摺の

外、何も聞えなかつた。

私は自分の短い影を見なが

ら歩いてゐた。

かなり長いこと、歩いた。

ふと、妙なことが起った。

私が私に聞いたのだ。

俺は誰だと。名前なんか

符號に過ぎない。

一體、お前は何者だ?

この熱帯の白い道に

瘦せ衰へた影を落して、

とぼとぼと歩み行く

お前は?

水の如く地上に来り、

やがて風の如くに

去り行くであらう汝、

名無き者は?

 

※A4の原稿用紙一枚に、以上のように行分けして書き写したものが、父の遺品の中から見つかった。タイトルも引用元も書かれていなかったので、オリジナルかもしれないと思った。出典がわかったのは偶然だ。社報のエッセイとともに手書きの原稿をコピーして、父の葬儀の参列者に配った。晩年、この部分を書き写した父親の問いの重さに心を動かされる。

 

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「今年の日記から 製造所資材二課 松井恒弥」(リッカーミシン社報1968年12月号 随筆欄)

 某月某日

 午ごろ一家で街にでた。この春最高とおもわれる暖かさである。山吹れんぎょうの黄、木蓮の紫、雪柳の白、等々、多彩な色の饗宴に花の春は今が盛りかとおもわれる。

 オモチャ・フレンドで安彦にリモコンのジープ、玉田で倫子に約束の自転車をかった。玩具屋での安彦のショッピングの興奮、倫子の新しい自転車との対面の感激、ともども脳裏に焼きつけて帰路についた。

 よろこび弾む子供たち同様、いやそれ以上に親としての充実感に浸りつつ・・・。

 あるか無きかの風に桜が散って風花のように舞って美しい。

 某月某日

 ・・・さて百花繚乱の花の春もそろそろ峠を越し、自然は「新緑潮の如し」とかつて荷風のいった若葉の季節に入ったようである。つい先ごろまで華麗さを誇っていたつつじも今はほとんど花片を落し、緋毛氈を敷いたような美しさを路辺のあちこちに見せるばかりとなった。今年の春も殊更に花の遠出は出来なかった。しかし与えられた自己の範囲内ではせいぜいその恩寵に浸ったつもり。

 さりゆく佐保神に一抹の哀別感を禁じ得ないものの、豊かなその美酒に酔った身には格別の悔もないようである。

 某月某日

 島秋人の「遺愛集」を読了した。

 飼をはこぶ蟻につききてあみ塀にさえ切られたり死刑囚われは

 夢なりと凍み入る獄の壁に触れ目覚めては得る命なりけり

 土近き部屋に移され処刑まつひととき温きいのち愛しむ

 死を宣告され生を極限されたもののみが味うであろう生への飽くなき執着と呻吟、その間にてんめんする宗教的諦観と静謐さ、高度の抒情性等、読後感慨少なからぬものがあった。著者島秋人は強殺人のいわゆる極刑囚だそうだが、その彼をかくまで高く昇華なさしめた秘密は一体どこにあるのだろう。それは獄中日毎に続けられた死との真剣な対決ではなかったろうか。まこと死への凝視は  ー  生の有限を再確認することは、人生如何に生きるべきか、あるいは感じるべきかの貴重なスタート台になりそうである。日常茶飯の瑣事にいたるまでも光芒化した「遺愛集」の著者と作品は、期せずしてそれを私どもに教示してくれているかのようである。

 流石梅雨中で大小の雨が飽くことなく降っては止みしている。くちなしの芳香、あじさいの色彩がその陰湿さの中でせめてもの救いである。

 某月某日

 国分寺跡を久しぶりに散歩  ー  二十余年前はじめてこの地を訪ねた頃は、「国分寺擲(なげう)てば瓦もかなし秋の声」の蓼太の句も自からな荒涼たる遺跡風景がまだ残されていた。しかし周囲に家がふえ半ば公園化したこの土地に、すでに詩情を求めるのは無理なようだ。度重なる国分寺参りも恐らくはこれが最後となろう。

 某月某日

 円空仏にこのところ取りつかれている。私には殊更な、仏像趣味はない。白鳳天平の諸仏もその荘厳さに魅かれはするものの、あるときはその装飾趣味にまたあるときはそのエキゾチシズムに反発すら感じる。しかし円空はひとり別のようだ。既成仏像には見られない斬新な主題処理、一木に彫りつける刀痕のタッチの雄勁さ、それにも増してそれら微笑仏の、微笑の数々は!

 一見稚拙にもみえるその微笑のおおらかさは、凡そ非凡なるが故に私は著名な弥勒菩薩の微笑より、あるいはジェコンダのなぞのそれよりもしたわしく思われる。敢て仏像に限らず漸近私の嗜好は簡素素朴なものへの傾倒が著しくなった。

 これをわが好みの老成を示すものとして喜ぶべきことであろうか、あるいは若さの退潮と悲しむべきなのだろうか・・・。

 窓外では今日も蝉の声がしきりである。

 

 

今あるもので満足すればいいじゃない

モームの小説には、紙面から浮き上がってくるような名言が多い。『お菓子とビール』から。

ロウジ―は、若き医学生のアシャンデンが、彼女の男関係を嫉妬するのを知って、こんなふうに言う。

「どうして他の人のことで頭を悩ますの? あなたにとって何の不都合もないじゃありませんか。わたし、あなたを楽しくさせてあげるでしょ? わたしといて幸福じゃないの?」「すごく幸福さ」「だったらいいじゃない。いらいらしたり嫉妬したりするなんて愚かしいわ。今あるもので満足すればいいじゃない。そう出来るあいだに楽しみなさいな。百年もすれば皆死んでしまうのよ。そうなれば何も問題じゃなくなるわ。出来るあいだに楽しみましょうよ」

 

 

行橋詣で(2024年4月)

年度末と年度初めの多忙さで、自分自身と自分の暮らしの矮小さにあらためて気づかされる中、気を取り直して、新年度最初のお参りにでかける。国東半島の両子寺の有名な仁王像の誕生年が金光大神と同じ文化11年(1814年)であることの縁で、寺で売られていた両子米2キロをお持ちする。

この間、勉強ができなかったことを正直に告白しつつ、やはりこの間の決意についても告白しないわけにはいかない。

昨年7月に訪ねて以来、金光教についての疑問に取り合えず自分なりの見通しが持てたこと。一つには、高橋一郎の著作によって、金光教が哲学的に優れた純度を持っていることに確信をもつことができた。もう一つは、その教えの内容を継承・実現する高度な仕組みとルールをもっていることにも気づかされた。ポイントは教祖の行いを反復する現「金光様」のモデル性、さらには直接の「親先生」のモデル性である。

後者の具体的な現れとして、先日久しぶりに伺った東郷教会の津上教会長のたたずまいに気圧(けお)された話を出した。金光様や親先生をモデルにして、教会の広前で「難儀な氏子」を助けるために神に取り次ぐというシステムは、それだけの人格を生み出すのだろう。

信仰については、認知症になっても死ぬまで続けることができるが、頭を使う研究は今しかできない。部外者で僕のような「発見」を口にしている人はいない。雑文やメモを書き散らすだけでなく、できればそれを多少とも客観性のある「論文」として発信したい。そのための手立てと機会を求めること。

後半は、読書についての話になった。井手先生は、A4版のルーズリーフ用紙で、詳細な読書ノートを取っておられる。僕との話題に出た清沢満之鈴木大拙についても、それぞれ手書きでびっしり文字が埋まった数枚分のノートをとっており、先生の勉強の徹底ぶりに驚かされた。

また先生は、宗派の専門用語を使わずに、いくつかの動詞を中心にご自分のつかまれた教えの内容を展開するような著作を計画しているという。なぜ動詞かとお聞きすると、それが人をつなげるものだからとおっしゃる。

大言壮語してしまったからには、一歩ずつでも前に進んでいこうと高揚した気分のまま帰りの電車に乗った。

 

 

美は退屈である

モームの小説『ビールとお菓子』から。

「美は恍惚であり、空腹のように単純だ。美について何か語るべきことなどありはしない。バラの香水のようなもので、香りを嗅いで、それでおしまい。だからこそ、芸術の批評というのは、美と無関係つまり芸術と無関係であるものをのぞけば、退屈なのだ。ティツィアーノの『キリストの埋葬』はもしかすると世界中の絵画の中で最も純粋な美を持つといえるかもしれないのだが、批評家がこの作品について言いうることは、実物を見てきなさいというだけである」

「美は袋小路である。山の頂上であり、到着したらあとはどこへも通じていない。だから我々はティツィアーノよりエル・グレコに、ラシーヌの完璧な傑作よりもシェイクスピアの不完全な作品に、より多く魅了されるのである」

 

『お菓子とビール』 サマセット・モーム 1930

モーム(1874-1965)の小説は面白い。僕に小説を読む楽しさを与えてくれる数少ない作家のひとりだ。5年ばかり前に、読書会の課題図書をきっかけにまとめて読んだ時期があったのだが、その後で思いついて買っておいた文庫本の頁をめくってみた。

とにかく登場人物一人一人が生きている。語り手の作家のアシャンデンにしろ、友人作家のロイにしろ、ロイが評伝を書こうとしている大作家ドリッフィールドにしろ、そしてもちろんその妻のロウジーにしろ、とても個性的で魅力がある。作家のタニマチであるミセス・バートンや、晩年のドリッフィールドの世話をやく新妻などは、(あるいはロウジーの愛したケンプ殿も)小説の中では損な役回りを引き受けてはいても、キャラクターとして生命を宿していて、単純な悪役にはなっていない。

よけいなことだが、最近の日本の本屋大賞に選ばれるようなベストセラーは、設定とストーリーで人目を引くものはあっても登場人物に厚みが感じられない。周辺の人物になるとなおさら役割だけのカキワリだ。いったい何が違うのか不思議だ。当たり前に言ってしまえば、人間と人間がおりなす事象に対する視力とその解析度の圧倒的な違いということだろうか。

一方、モームのこの小説は、ストーリーだけ抜き出すとどこが面白いのかわからない話だ。アシャンデンは、ロイから、ドリッフィールドの評伝を書くための情報提供を求められる。アシャンデンが少年時代と学生時代に、同郷のドリッフィールド夫妻とつきあいがあったからだ。承諾したアシャンデンは、アシャンデンの旧宅にロイと一緒に未亡人を訪ね、その地で思い出のメモを書くことを約束する。

ここまでで小説は終わる。アシャンデンがどんなメモを渡して、ロイがどんな評伝を完成させるのかもわからない。ただ、このなんていうことのないストーリーのあいまに、アシャンデンの少年時代の出会いからドリッフィールド夫妻に関する思い出が差しはさまれる。

この過去と現在との時間の行き来が自然で、人がどんな風に過去を生きているか、それをどんな風に思い出して今とつなげているのかを、さりげなくしかし高度な形で示唆しているのだ。その中で、作家ドリッフィールドの奇妙な人格と、その妻ロウジ―の発散する魅力が、体裁重視のイギリス社会を背景にして見事に描き出されていく。

クライマックスは、医学生アシャンデンとロウジーとの関係が深まる場面だろう。しかし回想は閉じられ、すべてが過去に消え去ったと思わされた瞬間に、思わぬ形で「ハッピーエンド」が訪れる。

タイトルもそうだが、全編に明るさと軽さがある。深刻ぶらずに、しかし人間というものの真相をぶれずに描きつくす筆は変幻自在だ。

 

 

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次男の入校式

次男の障害者職業能力開発校の入学式に夫婦同伴で参加する。次男が入学する総合実務科(知的障碍者対象)の人数は3名で、専属のスタッフの数も同じだから手厚い指導が受けられるだろう。親はどうしても欲目で見てしまうが、次男のコミュ力はかなり限定的だ。大人からあれこれ言われながらやるのが、本人にとっては気楽なんだろうと思う。仕事で自主性を重んじられ、そのためマルチタスクになるのが本人にはストレスなのだ。

昨年4月から実質的に仕事を休んで、義務教育以来の疲れをとって、ずいぶんのんびりできたはずだ。引きこもっていたわけではなくて、温泉施設や買い物に定期的に行って楽しんでいた。学生時代の知り合いと会っている気配がないのは、彼の障害の特性によるものだろうから、無理強いしたり心配したりする必要はない。後半は自動車教習所に通ってなんとか結果を出しつつある。

訓練校では、毎日体力づくりのための体育と農作業の実習があるそうだ。片道1時間かけての通学生活で、この一年間の生活リズムを立て直すことができるだろう。うまく就職へとつなげてくれたらいい。

一年間のコースだが、実際には就職が決まると年明けくらいに退校するケースが多いそうだ。本来なら来月に切れる給付も退校までは継続される。若干の訓練手当と通学費用の実費もでるようでありがたい。専門家に本人の特性を踏まえた就職のアドバイスをもらえるのは何よりうれしい。

介護職は、親の考えで勧めたものだから本人の気持ちと能力には見合っていなかったのかもしれない。事実としてある障害を前提として、こうした公的なサポートを十分に利用しながら、ストレス少なく生活していく道を、これからも次男といっしょに見つけていきたいと思う。

特別支援学級等での級友たちの顔を思い浮かべると、こうしたサポートを必要としている人たちは少なくないのだと思う。情報が届いていないのかもしれないし、その情報を活かせる環境にないのかもしれない。

午前でオリエンテーションが終わり、帰りがけ、JRと市営バスの定期券の購入で手間取ってしまった。高校の新入生たちで窓口が混んでいたからだ。次男も在学証明で大学生の割引料金が適用された。いざ新生活へ。

 

臼杵石仏に驚く

国東市に一泊して、さて翌日どうしようかと悩んだ。前日に国東半島は一人で堪能している。今日も再訪では刺激が少ない。それで足を延ばして臼杵まで行くことにした。別府、大分市の先の臼杵を訪ねる機会は今までなかった。石仏が自慢といっても、それなら国東半島で十分味わえる。

ところがこの認識はまったく間違っていた。石仏(摩崖仏)のレベルが圧倒的で、国東半島とは比較にならないほどなのだ。

魅力のある石仏であることは写真情報でわかる。しかし実際に行ってみて驚いたのは、その密度の濃さと集中度だ。ひとかたまりの見事な石仏群が4つ、小さな里山の斜面に並んで存在していて、遊歩道を歩くことで簡単にアクセスできるのだ。そこからは里山に囲まれたのどかな集落を見下ろすことができる。

石仏の尊顔は木彫と思えるほどに繊細で優美だ。しかし、身体の部分の処理は多く簡略化され岩の一部をなして風化も進んでいる。その対比が余白をいかす近代絵画のようで面白い。まるで岩盤から石仏が命をもってせり出してきたような印象なのだ。大陸の石仏群のような雄大さはないが、それに準ずる規模と日本的な繊細さを持っている。

国東半島の遺物は、大きな競合する勢力によって残されたものだろう。臼杵もそうなのかと思っていたが、その立地は、僕が普段歩いている旧大井村のような一村レベルのものということが意外な驚きだった。残念ながら見落としてしまったが、集落内には石仏を彫らせたといわれる長者と仏師の石像が残っているようだ。観光地としてきれいに整備されているが、全体的にのどかであくせくしたところがないのも良かった。

臼杵の中心部の城下町は、期待せずに立ち寄ったが雰囲気のよいところだった。かつてそこだけ島だったという城跡がシンボルとなって古い城下町を見下ろしている。街並みも良く残っていて、江戸時代の三重の塔があった。小ぶりだけれども、江戸の割にはとてもプロポーションがいい塔で、重要文化財になってもいいように思えた。