大井川通信

大井川あたりの事ども

父親と落語

父親は渋谷道玄坂の生まれだった。戦前のことだから、父親の家族は転々と借家を替わったらしい。今でいうと「懐古厨」というのだろうか、父親は、昔住んでいた場所を訪ね歩くことがあって、何か所か、子どもの頃つきあわされたのを覚えている。もちろん、当たり前の街並みに連れていかれて、ここだと言われても、子どもの僕にはなんの関心も面白みもない。

しかし、気づくと今は僕も、昔住んだアパートなど懐かしがって訪ねていて、立派な懐古厨だ。しかも、嫌がる息子を無理につき合わせたりしている。

父親は戦前、落語が好きでよく寄席に通ったようだ。落語家に対する評価などはしっかり持っていて、若手には特に厳しかった。子どもの頃の僕は、そんなものかと思って聞いていたが、今思うと、自分の青年期の経験をよりどころに、よくあれだけ専門家をぶった切れるものだ。

しかし、これもまた同じように、自分の狭い経験や気づきを足場にして、自信過剰気味に他者を批判するのが、もはや僕の持ち味になっている。親子の遺伝というものは逃れがたい。

父親は先代の名人文楽に敬意をもっていて、落語として聞けるのは、やや落ちるが先代の円生、志ん生まで、次の世代では馬生だけがどうにか聞ける、という評価だった。それ以外の落語家はテレビなどの放送があっても見向きもしなかった。(姉によると、後年、歌丸には好感を抱いていたらしい)

父親が10代の頃だと思うが、寄席の楽屋で、文楽に入門を志願したことがあったそうだ。〇〇さんはまだ若いから、と文楽からなだめられたという話を聞いた記憶がある。

 

 

九太郎のふみふみ

令和最初の日に、我が家にやってきた九太郎は、手のひらサイズで600グラムにもみたなかった。おくびょうで警戒心がつよかったから、同じころの八ちゃんのように自分から寄ってきて甘えるということはなかった。

先月に無事に去勢手術をすませて、体重ももう3.5キロ近くある。お父さんのマイケルも小柄の猫だったから、そろそろ成長もとまるかもしれない。

八ちゃんは去勢手術のダメージが大きく、しばらくふらふらしていた。手術の一週間後に持病のてんかんの大発作があって、あの世に行ってしまった。骨壺はリビングにある。最後に無駄に痛い思いをさせて、かわいそうだったと思う。

九太郎は、心配していた手術のダメージもほとんど感じられなかった。ただ、たまたまかもしれないが、その頃から、僕に甘えてくるようになった。昼間はそんなことはない。夜中だけなのだ。しかも、ふだんお世話をしていて一番仲の良い妻にも、そんな姿をみせないという。

猫が、両足を交互に踏みつけるようにして甘えることは、八ちゃんで知っていた。八ちゃんは、昼間から柔らかいこたつ布団に前足でふみふみをしていた。母猫に母乳を求める仕草だという。

九太郎は、夜中に二階に上がってきたときだけ、僕の枕元で、ふみふみの仕草をする。椅子に座ってパソコンを打っているときは、ゴロゴロとのどを鳴らしながら現れて、膝に飛びのってきたりする。そうしてのどを鳴らしながら、僕の太ももやお腹に前足でふみふみをする。目をほそめてうっとりした表情をしながら。

僕は、膝の上の九太郎を、そっと両手で抱きかかえる。しなやかな感触と体温がそこにあって、冷え冷えしたこの世界に、久太郎と僕しか存在していないような心持になる。

 

 

缶コーヒーの思い出

最寄り駅の近くの自販機で、UCCのミルクコーヒーを販売するようになった。上から茶色、白色、赤色の帯で3色に塗り分けられ、真ん中にUCCのロゴが目立つ缶コーヒーを自販機で見るのは、本当に久しぶりな気がする。

遠慮がちに金額も80円と控えめだから、つい買ってしまう。飲むと、ミルクと砂糖の入った懐かしい味だ。高校生の頃、自販機で買う一番美味しい飲み物がこれだった。コーヒー牛乳よりは、いくらかコーヒーよりという設定が、当時の人たちには親しみやすかったのかもしれない。

調べると、1969年に誕生した世界初の缶コーヒーなのだそうだ。現代の消費文化の起源は、思いの外浅い。発売50周年を記念して、味覚とパッケージを見直した10代目をリニューアル発売したために、ふたたび世間の目に触れるようになったのだろう。

缶コーヒーといえば、こんな思い出もある。

昔のコーヒー缶(1980年代まで)は、リングを引っ張ると缶からフタが取れてしまうプルタブ方式だった。ちなみに、今の缶は、リングを立ててもフタが内側に折り込まれるだけだが、これをステイオンタブ方式というらしい。

父親が散歩の途中、よほどのどが渇いたのか、初めて缶コーヒーというものを買ってみた。フタのリングを起こしてみたものの、そのまま力を加えてむしり取る、とは思い浮かばない。リングをぐるぐる回すと、ちぎれてフタの真ん中に小さな穴が開いた。そこから水滴のようにしたたるコーヒーを、公園のベンチに座ってずいぶん時間をかけて飲んだそうだ。

戦前に寄席に通って落語家を志望したこともある父親は、そんな自分の失敗談を、さも面白そうに何度も話していた。

 

 

 

『先見力の達人 長谷川慶太郎』 谷沢永一 1992

経済評論家の長谷川慶太郎(1927-2019)が亡くなった。東西冷戦の終焉とバブルの崩壊の時代、この先世の中はどう動くのか不安になって、経済本を読み漁っていたときがあって、彼の本を読んだり、テレビで話を聞いたりしていた。

そのころ買って、読まずに手元に残していた本をあらためて読む。オイルショックから80年代末までの長谷川の著作からの引用を、文芸評論家谷沢永一(1929-2011)が解説し、賞賛するという本。

高度成長期の後の二度のオイルショックを日本は乗り切り、世界を尻目に安定成長を続けていた時代だ。アメリカは製造業で日本に追い抜かれ、ソ連は崩壊へと向かっており、中国はいまだ迷走を続けていた。なるほど、長谷川慶太郎は、この時代の日本経済と世界情勢を的確に診断し、凡百の評論家にはもちえない先見力を発揮していたことがわかる。

それは彼が、現場の具体的な人間と組織を目の当たりにして、そこからモノを考えていたからだろうと思う。当時の経営者が、技術者が、労働者がどんな思いで、何を大切にして働いていたのか。

僕の父親も長谷川慶太郎と同じ戦中派だったから、この本の扱う時期が、父親の仕事人生の後半の期間をカバーすることになる。仕事が好きなタイプではなかったが、ミシン工場でコツコツと律義に働いていた。そういう一人一人に思いを致すことなく、高度成長や戦後の日本の繁栄をひとくくりにする批評にはうんざりするしかない。長谷川慶太郎の方が、よほど人間を大切にしているといいたくなる。

今から振り返ると、この本の「先見力」が90年代以降の情勢には十分に届いていないことはわかるのだが、それは後知恵だろう。それだけ大きな激震が、それ以降の世界に起こったのだから。

谷沢永一は、左翼批判の急先鋒だから、本来だったら僕などは敬遠したい書き手である。今村先生や柄谷行人と同世代にあたるマルクス主義哲学者鷲田小弥太(この本の解説も書いている)が、なぜか谷沢永一長谷川慶太郎を評価していて、それで読むようになったのだ。理念や信条ではなく、人間を見る。今でもなかなかできないことだ。

 

 

笠仏さま

笠仏(かさぼとけ)さまの絵本の製作が、頓挫している。聞き取りができたのが、4年前。3年前には、簡単な絵コンテを妻に渡した。妻が実際に絵を描いたのは、その1年後だが、その時には僕も気乗りがしなくなっていて、妻の絵を2年間放置している。

大井の隣村の平井を歩いているとき、田んぼの脇に、奇妙な石のかたまりを見つけたのが事の始めだった。当時は、近所を歩き始めたばかりの頃で、道端の庚申塔を見つけるのが楽しかったのだ。

そこには無造作に大きな石がいくつも寄せてあって、動かないように足元はコンクリートで固めてある。庚申塔らしき長方形の自然石もいくつかあるが、よく見ると、仏様の姿が各面に彫られた六角形の石が二つある。よほど古いものなのか、表情などの細部は摩耗して、かろうじて姿だけが浮彫りになっている。六角形の石の頭にかぶせる傘のような円い石も下ろされて、地面に固定されているのだ。

六角地蔵というのは、すぐにわかった。しかし、信仰されている様子はない。八波川に沿って上流の村山田地区では、古い石塔を大切に祭ってある。平井地区は、駅のすぐ目の前であり開発が進んだことが影響しているのだろうか。

後日、そのあたりの小字名が「笠仏」というのを知って、この古い石塔の残骸のことが結びついた。驚くとともに、地名の由来にしてはあまりに邪険な扱いがいっそう不思議に思えた。

あとは、地元の人から聞き取りができればいい。その機会は意外と早く訪れた。八並川沿いの道で、腰の曲がった老婦人が犬の散歩をしている。ダメモトで声をかけると、なんと石仏のある田んぼの所有者の方だった。昭和8年生まれのその人から、ようやく笠仏様のいわれを聞くことができたのだ。

 

大井のはちみつ

家を一歩もでたくない。ゼンマイがほどけてしまったような、電池が切れてしまったような休日が、僕にはよくある。そんな日は、本も読まずに、何も考えずに、昼寝をしたりして一日を過ごす。

お腹がすいたので、一枚の食パンを取り出し、はちみつをたっぷり塗って、コップになみなみついだ牛乳を飲みながら、食べる。

はちみつは、大井村のひろちゃん(吉田弘二さん)からいただいた自家製だ。大井の新鮮な花の蜜をあつめて、透明で、なめらかで、ほんのりとやさしく甘い。

目をつむると、僕は一匹のハチになる。里山の山ふところにあるひろちゃんの農園を飛び出した僕は、群れの仲間といっしょに休耕田のコスモスの花々を満喫する。大井川をまっすぐにさかのぼって、土手の花々の蜜を吸う。

水神様や和歌神社を下に見て、集落をこえて、納骨堂あたりに咲き誇った花々を味わう。そうして僕は皆からはぐれて、どこまでも高く飛んでいく。大井川上流のダムも、ひろちゃんの農園も、里山の住宅街も、眼下にどんどん小さくなる。いったいどこまでいくのだろう。

その時、僕は、部屋の中で、食パンの最後の一切れを口に入れる。

 

 

こんな夢をみた(映画館)

テレビを見ていると、ドキュメンタリー番組に、昔の高校のクラスメートの女の子が出ている。とても目立たない人だったけれど、主人公の中年過ぎの女性は、まちがいなく彼女だと思えた。

何かの苦難を受けているのは間違いないが、それが家族の病気なのか障害なのか、原因がはっきりわからない。いつの間にか、自分が彼女にインタビューしていて、間近にみると人違いだったことに気づいた。

次のシーン。

ビルの一室の小さな映画館を僕は手伝っている。カラフルな黄緑色のソファーが並んでいて、上映が始まっても電気が消えずに、みな静かにおしゃべりしている。遅れて入ってきた車椅子の客を、僕は前の方のスペースに案内する。

ビルの廊下を挟んで反対側に、もう一つ同じような映画館があって、そちらはオーナーが仕切っているから、自分が手伝っている館の方がお客さんが多いのが誇らしかった。

次のシーン。

年度末、僕は遠くなれた街に来て仕事をしている。大切な書類をカバンにつめて。僕は、敵らしきグループに狙われているようでもある。仕事の結果を事務所にファックスかメールして指示を出し、僕はしばらくこの場所に残ろうかと考える。休暇を使えばいいが、その先はどうなるだろう。仕事を失うことが不安になる。

その時味方らしき人が現れて、あなたは戻るべきだ、とアドバイスしてくれる。僕は我に返って、地元にもどろうと決意した。

 

 

趣味と禁忌

小学生の頃、手品ばかりやっていて、学校の成績が落ちてしまったときに、父親から手品師になるつもりかと怒られたことがある。なってもいいのだけれどと思いながら、そこはすなおに手品を控えるようになった。

中学生になって、小説を読むようになったときも、漱石の文庫本などを机に隠していた。本好きは父親の影響だったが、恋愛小説などは子どもには早いという父親の考えがあったからだろう。

そういえば、僕は両親からは聞き分けのいい子どもだと思われていたようだ。他の子どものようにお菓子を欲しがって泣いたりしなかったが、甘いデンブだけは好きで、お総菜屋さんの前でじっと動かなくなった、という話をよく聞かされた。

家の方針や経済状態を頭に入れて、無理をいうことはなかった。学校で話題の人気番組を見たいとも言わなかったし、野球盤やボーリングゲームが流行ったときも、変速機付きの自転車を級友が乗るようになっても、欲しいとは言わなかった。

60年代。まだ周囲は貧しかったし、個人の欲望や個性が、善とはされなかった時代だ。欲望や個性を殺して、集団に入り、生産に励むことがいまだ社会の正義であったし、まして戦中派の両親にとっては、それ以外考えられない行動原理だったのだろう。

両親にはずい分よくしてもらったから、それを恨みに思ったことはないけれども、そうした環境が自分の可能性を狭めてしまったのではないかと疑っていた時期もあった。しかし真からやりたいことに出会っていたら、そんな制約など何とか突破していただろう。

むしろいまだにちまちまと手品をしたり、本を読んだり、自分の思いつきに夢中になったりしているのは、あの頃の禁忌や制約のおかげであるような気がする。限られた条件の中で、ひそかに自分の楽しみを見つけること。

親から不当な制約を受けたと感じている子どもたち(子育ての性格上、必ずそうなるだろう)は、自分が親になったときは、自分の子どもには同じ思いをさせたくないと考えがちであるような気がする。僕ですら、子どもたちが何かに興味を持ったときには、たとえそれが自分の趣味や考えに多少反するものであっても、止めるどころか応援するようにしたものだ。

けれど親にとっては重要なこの原則の意識的変更は、振り返ってみると、子どもたちにはたいして響いていなかった気がする。そもそも人として育つこと自体が、巨大な制約をこうむり、重圧を受けることなのだ。子どもの興味や趣味を認めることなどは、その中でわずかな自由を提示することにすぎなかったのだと思う。

 

 

 

 

テンちゃんと山伏どん

休みの日。妻は彫金教室に、次男は温泉施設に出かけたので、昼前にぶらりと家を出る。車だから、今日は大井川歩きモードではない。

駅近くのランチカフェで、マスターの高崎さんと、ランチを食べながら話し込む。ゆるキャラを考案し、絵本をはじめとする商品開発をし、行政を巻き込んで外へと展開していくことをまったく一人の思いでやっていることを先日知って、こんな人が身近にいるのかと驚いた。

たいていのご当地キャラは、大人たちの思惑が絡んで、あれもこれもとごちゃごちゃしたデザインになっている。高崎さんが生み出したテンちゃんは、この地域の田畑からかぬっと伸びあがったようなシンプルな姿で、かわいくも力強い。テンは意外と獰猛な動物らしいから、この土地のために大あばれしてくれそうな予感がする。

話してみると、土地への愛着や、気宇壮大な構想、一人を喜ばすことを信条としている点など、共感できることが多い。

持参した手作り絵本「大井始まった山伏」を開いて、さっとよみあげる。大井村の始まりの物語だけれども、この言い伝えを覚えているただ一人から聞き取ったものであること。断片的な伝承を創作で補ったこと。そのおばあさん亡くなる前に、病室で読みあげて喜んでもらったこと。こんなふうに大井の土地がもつ記憶からたくさんの物語を取り出して、キャラクター同士が絡み合う神話群をつくりあげたいこと。などなどを話す。

高崎さんは、妻の絵がうまいことをほめてくれた。妻に伝えたら喜んでやる気を出してくれるだろう。高崎さんの活動に刺激をうけて、僕もやる気になった。百の物語を作るという構想は、四つで止まったままだ。ここで止めるわけにはいけない。

 

 

 

本の読み方・本との戦い方

読書会の課題図書の小説『輝ける闇』をさっさと読み切って、期限の迫ったレポートを手早く書き上げた上で、腑に落ちないところを考え込んだ。それで翌日の会には、何とか自分なりの読みを持ち込むことができた。その少し前に別の読書会で読んだ評論系の『急に具合が悪くなる』についても、同じような過程をたどった。

この二つの本の読書で、自分が無意識にとっている読書法について、少し自覚的になれた気がする。それをメモしておこう。

まず、本を読み始めてかなり早い段階で、その本が良いか悪いか、プラスなのかマイナスかの評価を仮に決めてしまう。優れたポイントがいくつか続けば、肯定評価になるし、違和感を抱くポイントが続けば、否定評価になる。今回の二著は、後者だった。

以後は、読み進めながら、肯定・否定の仮説を検証していく作業になる。たとえば、早めに否定の判断ができれば、それ以降、いっそう深く否定の要素を探ることができるし、自分の仮の判断を裏切る肯定の要素が出てくれば、早めに仮説を修正できる。ただし、実際に初めの判断を覆されることはほとんど無いような気がする。

そうすると、読了後には、評価の根拠が出そろうことになるから、それらをつなげるだけで、一定の批評ができあがる。『輝ける闇』では、過剰な比喩の羅列や時代の制約を感じさせる価値観だ。『急に具合が悪くなる』では、学問への過剰な要求に反する現実との乖離というあたりになる。

すると次に問われるのは、この過剰なるがゆえの失調(肯定評価の場合は、成功)はなぜ生じたのか、という点だ。これは本を離れて、頭の残った書物の諸要素を手に取りながら、自分の知識や経験を総動員して、答えを見つけ出していくことになる。

この時本を読み返すことはめったにない。本には無限なくらい豊かな細部がある。それにとらわれることは、作者の術中にはまることだ。作者の首根っこをつかまえるためには、少数の要素にしぼって、戦いを挑まないといけない。

こうして、『輝ける闇』では、ベトナム戦争の「聖性」に対応するための文体という答え、『急に具合が悪くなる』では、学問の地盤である生活への無自覚という答えに思い至ることになる。どこまで当たっているかはともかくとして、肯定/否定を入口として、書物の本質を問題にする地層まで掘り進めたことになる。

読書会には、読みの強者もいる。ここまで読みを作っておくと、読みの方向がちがっても議論にはなるし、ただ単にバッサリ切られてしまうということは避けることができるようだ。