大井川通信

大井川あたりの事ども

『輝ける闇』 開高健 1968

読書会の課題図書。高名な小説家開高健(1930-1989)を初めて読む。僕の親世代の作家で、今の僕の年齢くらいで亡くなっていることを知る。

ベトナム戦争南ベトナム軍に従軍し、ジャングルでゲリラに迎え撃たれ、部隊の多くが戦死するなかで敗走する場面がクライマックスなのだが、全編の末尾の文章がつぎのようなものだ。

「まっ暗な、熱い鯨の胃から腸へと流れ落ちながら私は大きく毛深い古代の夜をあえぎ、あえぎ走った/森は静かだった」

全体的に、こんな感じの比喩の羅列がつづき、とても気になった。ああだこうだと自意識を無理に展開し、独自の感覚をこねくり回すことが、「文学」なのだろうか。これがあまりハマっているとは思えず、かえって事実の衝撃を弱めているように思えた。

僕が物心ついたときには、リアルな戦争といえば、ベトナム戦争(1955-1975)一色だった。だから、1965年に人気作家である著者が実際にベトナムの戦線に出向き、その経験をもとに1968年にこの作品を発表したときの注目度や反響は、今では想像できないほど大きなものだったろう。

秋山駿の文庫本解説での絶賛ぶりからも、発表当時、この作品が好意的に受け止められていたのがわかる。しかし今読むと、この文体が上手くいっているとは受け取りがたい。読書会での反応もおおむね不評だった。この違いはどこから来るのか。

悪のアメリカ帝国主義対正義の民族解放運動という図式や、革命や社会主義への期待が存在した時代には、ベトナム戦争は特別な場所であり、ましてその前線は「聖性」を帯びていたはずである。作者は、その聖なる現場には、どんな人間の欲望や卑小さを投げ込んでも「浄化」されると考えたに違いない。

卑俗な性描写がこれでもかと繰り返される理由もこれでうなずける。この過剰な文体は、ベトナム戦争の単なる事実を超えた「聖性」とそれによる一切の事物の「浄化」をとらえるために、構築されたのだろう。

自分は見ているだけのもの(屍肉を貪るハイエナ、視姦者)だ、と繰り返し語られる自己批評も、知識人や文学者が政治参加し、現場に出ることが正しいという価値観があるからこそ成り立っているのだ。正義を実行しつつ、自省も出来ているのだと。
革命の正義や知識人の政治参加という枠組みが無くなってしまった時代に読むと、小説家がジャーナリストの真似事をしてベトナムに行き、特権的な地位を利用して、現地に彼女を作ったり、知的交流をしたり、危険な前線に赴いたりすることが、ひどくひとりよがりなふるまいにも見えてしまうのだ。
それ以外にも当時の価値観を前提にした比喩やイメージの描写が目立ち、それだけ古びてみえるところがある。例えば、ハンセン病患者を「溶ける」というイメージの材料として扱ったり、いかにも男中心の価値観に基づく男女関係が描かれているところなど。

ひさの5周年祝賀会手品演目

ひさの5周年のお祝いの食事会に招待された。昨年のデイサービスゆいまーる5周年に引き続いて、手品を披露する機会をいただいた。小学校以来、芸歴は50年近くになるが、ステージマジックを実演する機会はめったになく、できる演目も限られている。

記憶にある限りでも、友人の結婚式、子どもの学級会、大井川周辺では、地元の敬老会、原田さんの出版記念会、そして今回ということになる。記念に演目を書き留めておこう。

まずは、耳が大きくなる手品。さる芸人がひろめた手品で、まず、お客さんの心をつかむ。

次は、実ははじめての演目で、両手で広げたビニール布の上で金属球を浮かせたり、自由に飛行させたりという大技。種の仕掛けがチラチラ見えたりするのもご愛敬で、小学生からは、わかった、わかったの声が飛ぶ。

ここで、またしてもさる芸人の広めたラッキー君という小動物を手元でちょこちょこと動かす手品を見せる。

最後は、定番の「残念でした」という手品。大きなカードの表裏を見せながら、カードの数字(サイコロの目の数)を次々に変えていくもの。最後に、目の数が一気に増えるというオチがあって、一同を驚かせて、終わらせることができた。

祝賀会では、田中好さんら職員さんたちの歌や楽器や踊りの披露。入所者さんの隠し芸。看護師さんファミリーの出し物があって、なごやかで楽しい会となった。

ひさので亡くなられた入所者さんのご家族も参加されていて、故人のお話をみんなで聞けたのも、ひさのらしくてよかった。

 

樹空(つづき)

樹空という言葉で思い出したもう一つの詩は、僕の好きな丸山薫の、詩集にも入っていない無名の詩「樹と少女」だ。長い詩なので、5連中の第3連のみ引用する。

 

或る夜ふけ なにかの声で/不意に眠りから呼び戻された/月があったので私は無灯で庭へおりた/一本の樹の下に歩みより/ふかぶかと隠されたその眠りの中を覗いた/まったく想ってもみなかった/なんと異様なかがやきだったことか!/繁りのすきまから無数の光が射しこんでいた/それらは乱反射し 眩めきの中を/幾条もの枝の岐れが白く天に向って駆け昇っていた/そうだ 枝の炎はねじれ上昇していたのだ/巨木でもないのに 梢は高くないのに/その先端は無辺際につながっていたのだ/樹はいま夢をみている!/樹の夢のさかんな光景に私は驚嘆した

 

この詩を知るようになってから、僕はよく繁った大きな樹をみると、木肌に顔を近づけて、幹の上の様子を探る習慣がついた。(しかし、まだ「樹の夢」らしきものに出会ったことはない)

我が家の門の脇には、樹齢二十数年の自慢のケヤキがある。朝晩見上げる幹の上部には、たっぷりと細かい葉をひたした緑の空間がある。きっとあれが樹空なのだろう。

 

 

樹空

樹空という言葉はあるのだろうか。ネットで見ると、富士山の近くの公園の名前として出てくるだけだ。

以前、知り合いの画家の山本陽子さんの展覧会に行ったとき、テーマが「樹空」だと教えられたことがある。樹の梢や枝の葉がふれているあたりの空間のことだという説明だった。

その時、僕は、同時に二つの詩を思い出した。そして、できればその詩の写しを彼女に渡したいと思った。ところが、その先の記憶が、切り取られた枝の先みたいにぷっつりと途絶えている。手渡したという記憶もなければ、失念して後悔したという記憶もない。

僕が、樹空という言葉を忘れてしまわないうちに、その詩を引用しておこう。一つは、シュペルヴィエルのたぶん有名な「森の奥」という詩。

 

昼も小暗い森の奥の/大木を伐り倒す。/横たわる幹のかたわら/垂直な空虚が/円柱の形に残り/わなないて立つ。

そびえ立つこの思い出の高いあたり/探せ、小鳥らよ、探せ、/そのわななきが止まぬ間に/かつて君らの巣であった場所を。

 

新開景子さんのあしあと

2年前に近所のマンモス団地で行われた連続講座に通った。題して、団地再生塾。建設して半世紀近くなる団地には、高齢化や空き家の増加等の問題がある。それを住民主体で、様々な手法や実践事例を学びながら考えようという講座だった。

中心人物が大学の建築学部の先生で、街づくりの中心が、社会教育にかかわる人々から、街並みや建築、起業といったハード面やマーケットに通じた人々の移っていることを、遅ればせに知ることになった。

講座の各回は、外部からの講師の話をきっかけに、ワークショップ方式で、テーブルごとに長丁場の議論をした。僕は、近隣のもっと小規模で新しい開発団地で暮らしていて、大井川歩きなるものを実践している。その経験からの話をした。

開発団地は、旧集落の里山だった場所だ。大規模な団地の中で生活していると見えにくいけれども、街には境界があり、そこで旧集落と接している。団地の再生は、旧集落との関係を手がかりにできるのではないか。

半年間の連続講座が終わると、駅の反対側の開発団地との関係は、自然と疎遠になっていたけれども、ごく最近、その時熱心に参加していた若いデザイナーが、一年ばかりまえに亡くなったという話を耳にした。

彼女も毎回の参加者だったから、同じテーブルで議論することが何度かあった。街おこしのグッズのキャラクターのデザインの参考になればと思って、地元の山伏の資料と、手作り絵本「大井始まった山伏」のコピーを渡したこともあった。

今思うと、昨年、玉乃井のひと箱古本市に出店している彼女とひさしぶりに言葉を交わしたのが、お別れだったことになる。

ちょうど彼女をしのぶ作品展が、隣町のギャラリーで行われていたので、夫婦で観にでかけた。「新開景子のあしあと展」という展覧会の案内カードの端には、よく見ると、小さな足跡が途切れることなく続いている。それに気づいて、妻が何を思ったか「だんなさんに愛されていたんだね」という。

会場で、笑顔で迎えてくれただんなさんの表情をみて、なるほどそうだと僕も思った。

 

 

ごちゃごちゃになる

新しい猫の九太郎が我が家にやってきてしばらくは、九ちゃんのことを、前の猫の名前八ちゃんと呼んでいることが多かった。そのうち、九ちゃんと呼んだり、八ちゃんと呼んだり、ごちゃごちゃになってしまう。さすがに今では、九ちゃんに統一されてきたようだが。

そういえば、子どもの名前も、次男のワタルと長男のユキトの名前を言い間違えて呼ぶことが、ある時期から多くなった。無意識に口から出る名前が、まちがっているのだからしょうがない。子どもはあきれていたが、そう開き直っていた。しかし長男が家を出て何年もたつうちに、さすがにこの言い間違いはしなくなった。

猫を飼いだすと、猫の可愛さが骨身にしみる。夫婦で、まるで子どもといっしょだと世話に精を出す。そのせいか、こんどは九ちゃんのことを、ワタル、ワタルと思わず呼んでしまうことが多くなってきた。息子は怪訝な顔をするが、自分の子どもが小さな幼児だったころのイメージを投影しているのだろうと、一人納得する。

ところが、今朝、息子が出かけるときに、「九ちゃん、気をつけていってらっしゃい」ととっさに口に出てしまったのは、我ながら驚いた。

猫同士、人間同士は姿形がよく似ている。人間の赤ちゃんと子猫とは、可愛さで共通するところがある。しかし成人男性と、子猫とはなんの共通点もない。第一、座敷猫の九太郎は外出なんかしない。

確実に世界はごちゃごちゃになっていく。崩壊へとすすんでいく。

 

『急に具合が悪くなる』 宮野真生子・磯野真穂 2019

 

ガンで死に直面した哲学者と友人の文化人類学者との往復書簡。読書会の課題図書として読んだのだが、僕には、とても読み進めるのが難しい本だった。

細かい違和感は多くあるのだが、その大本を探っていくと、次の二点に突き当たる。

一点目は、礒野さんの書簡について。この本の中で、彼女の言葉は激しく空回りしている。それをどう評価するにしても、この空転やうわすべり感を否定することはできないだろう。ではいったい、この空回りの理由は何なのか。

二点目は、宮野さんの書簡について。磯野さんの誘導で、彼女は死病に向き合う哲学者として独自の哲学的思考を求められる。にもかかわらず、最後まで彼女はそれを示すことがない。九鬼哲学の解説や死に向けての決意は語られるが、既視感は免れない。これはなぜなのか。

この二点について、僕なりにおおざっぱな見当をつけてみたい。

かつて日本には、生活のレベルでの実践的思想と、学問の世界の思考との、深刻なすれ違いという問題があった。後者が直輸入の専門用語によってなされて、日常語のよる思考との間に断層があったからだ。

小林秀雄のような文芸評論家や、吉本隆明鶴見俊輔などの在野の思想家にアドバンテージがあったのは、この事態と正面から向き合っていたからだろう。彼らは、社会全体の認識や革命を志した世代であったために、この断絶の問題を扱わざるを得なかったのだ。

40歳過ぎの著者たちの世代になると、こうした問題意識が欠落しているのは仕方がないのかもしれない。確かに知識人対大衆などという問題設定は、とっくに陳腐化している。彼らはためらいもなく日常のあれこれを研究の俎上にのせて、悪気なく「上から目線で」解明しようとする。

では、思想と生活とのねじれや対立という根本の問題が解消しているのかというと、僕は手付かずで残っているような気がする。これが問題として浮上するのは、病を得る、老いる、死に向き合う、といった生活のど真ん中における事態を考えなければならなくなったときだ。

礒野さんの研究者としての好奇心は、事態の核心に切り込めずに、その周りをぐるぐると回り続ける。宮野さんも、哲学者としての思考を求められる限り、この事態を言語化する手立てをもたないように思える。

 

大井川沿いを「ひさの」まで歩く

朝、家を出る。久々に遠出を考えて、遠くに見える多礼村の里山を目標にしようと思い立つ。大井川の水辺で、イソシギがおしりを振っているのを眺めてから、古民家カフェの村ちゃこに寄ったのが間違いだった。

村の賢人原田さんが難しい顔をして、何やら書をしたためている。店主の小川さんと昨日仲たがいをしてしまい、彼女に渡す手紙を書いているとのこと。そこへ小川さんが入ってきたものだから、わざと陽気にふるまって、あれこれ話すことに。

小川さんの息子さんは、遠方のキリスト教系の農業高校で寮生活を送っていたが、京都の大学を志望しているという。政治学者の白井聡のもとで勉強したいのだそうだ。

へえ、白井聡か。よくそんな名前にたどりついたものだ。すこし以前、今時レーニンの研究で華々しくデビューした若手の登場に、オールド左翼がさかんに喝采を送っていた。『永続敗戦論』は評判ほど良くなかったが、レーニン論はちょっと面白かった。しかし、唯物論者の彼がいくら「物質」を持ち上げても、それは威勢よく他をぶった切るための観念にすぎない。

本当の物質は、大井川沿いの土地みたいにひたすら他を支え続ける土台だ。僕はこの土地を歩き回りながら、原田さんにも小川さんにも、ひろちゃんにも田中好さんにも出会った。たまたま同じ道端に居合わせたくらいの理由で。

結局2時間話し込んでしまい、再び歩きはじめる。暖かい日差しに、ホオジロが季節外れのさえずりを始めた。里山まではもうあきらめないといけない。原則をまげて、帰りはバスを使おうかと弱気になる。

老人ホーム「ひさの」に着くと、さいわい田中好さんがいて、もうじき105歳になる深堀さんの声を聞くことができた。平等寺村で歌が上手いと評判の娘時代のエピソードを絵本にするつもりだったことを思い出す。

お茶の間で、他の5人の入居者の人たちにあいさつをする。県南で名門校の社会科教師をしていた人、山田村で稲作と畜産をしていた人の話が興味深い。

帰り田中さん親子がもいでくれた柿をお土産にいただいて、バスにも乗らずに歩いて帰る。5時間かかったが、歩いたのは2時間もないだろう。

 

 

くまちゃんと九太郎

臆病な九太郎は、僕がいるときしか二階には上がってこない。誰もいない二階で、どしんばたんと音を響かせて運動会をしていたはっちゃんとは、まるでちがう。

だから、座敷猫の九太郎は、一階のリビングやキッチンが中心の狭い世界の中で暮らしている。登場人物も、僕と妻と次男だけ。あとは、網戸の外の庭で鳴くスズメ。それから隣家のくまちゃんがいる。

昨年引っ越してきた隣家には、おそらく、くまちゃん、という真っ黒い座敷犬がいる。隣人がそう名前を呼ぶのを妻が聞いたそうだ。

隣家と我が家の勝手口は、低いフェンスをはさんで向かいあっていて、戸口の上下は網戸にもできるから、そこに顔を出すくまちゃんは、外を見てわんわん吠える。九太郎は、それを珍しそうに見ている、と妻が教えてくれた。

今日、くまちゃんは隣の家族が庭仕事をしているためか、庭に出してもらってうれしそうだ。戸口の前のフェンスのところに来て,わんわん吠えている。人の気配がないのに吠えるのは、きっと九太郎を呼んでいるのだろう。

九太郎は、くまちゃんの声を聞くと、戸口のそばに駆け寄ってから、身を低くしてゆっくりと網戸に近づいていく。くまちゃんはうろうろしながらしばらくわんわんやっていたが、九太郎が姿を見せてしばらくすると鳴くのをやめてしまった。

もうじき寒くなって網戸にすることもなくなったら、九太郎もきっとさみしくなるだろう。

 

 

テンもいてんの?

玄関先のポーチに細長い小さなフンが置かれている。妻に聞くと、以前から時々見かけるらしい。ネットで調べると、イタチのフンであることがわかった。

イタチは石張りの玄関にフンをすることを好むという習性までわかった。フン害にあった人が、ネットで現場写真を報告してくれているからだ。

しかし、と思う。ネットのない時代には、こんなことどうやって調べたのだろうか。図書館に行っても、動物の図鑑や生態の本はあっても、フンの写真まで見つかるかどうか。専門家の知識や、経験のある人の知恵が重きをなしたのだろう。

田んぼの近くや神社の境内ではイタチは見ることはあったが、こんな住宅街の中までナワバリにしていたとは。足元に「イタチがいたっち」というわけだ。

ここまではイタチの話。

地元にできたカフェで、食事をしていると、店主と、テンの話になった。実はこの地域には、テンもいるそうで、彼女は中学校のグラウンドで目撃したそうだ。

よく見ると店内には、顔の白いてんをモチーフにした「テンちゃん」のゆるキャラグッズがおいてある。お菓子や缶バッジ、絵本まで。

地元を盛り上げるために、店主が自分で考案して宣伝していたら、市役所ものっかてきたそうだ。クラウドファンディングで資金を集め、着ぐるみ制作を計画中のこと。

ドラクエ好きの店主は、これで世界征服すると、大きなことをいう。実際、子どもの受けもよいようで、博多のデパートでのお菓子の売り上げも上位だそうだ。シンプルで魅力あるデザインだし、仲間のキャラも楽しく、僕にも、これはいけるのではないかという気がする。

すごい人がいるものだ。僕も、一見何もない大井の地で、新たな神話たちを生み出して、世界に類のない土地にするのだと、ホラを吹く。そのときは、ヒラトモ様に、テンちゃんに負けないゆるキャラになってもらわねば。