大井川通信

大井川あたりの事ども

道端の神

大通りの歩道わきに、子どものおもちゃみたいな派手な彩りのオブジェがある。アートによる街づくりとかで設置されたものだろう。

真っ赤な金属の積み木を組み合わせたようで、足下には車輪もついているし、顔の部分には、銀色の球がはめ込んであって、目のようだ。横のプレートには、みんなの幸せを願うためにやってきた神様である、というキャプションがある。この説明込みの作品なのだろう。
確かに、古くからの集落が発展した街と、新しく開発された街とでは、路傍でさりげなく石仏や石塔などの神々が見守っているかどうか、の違いがある。石仏は、どんなに古びていても、街を眼差している善意の主体であり、手向けられた花や賽銭が、神々と人間が交わした遠い約束を思い出させてくれる。
この自己主張が強い余所者のオブジェは、果たして新時代の神になることができるのだろうか。おそらくそれは難しいけれど、少なくとも、街の人たちに、本物の神の不在を気づかせてくれることだろう。
 

『タタール人の砂漠』 ブッツァーティ 1940

読書会の課題図書。ブッツァーティ(1906-1972)はイタリア人作家。カフカの再来とも言われるらしいが、ある辺境の砦をめぐる寓話的な作風で、とても面白かった。

主人公のドローゴは、士官学校を出たあと、辺境の砦に将校として配属になる。砦では、軍隊式に秩序正しく警備が行われているが、国境の北の「タタール人の砂漠」と呼ばれる荒地から、敵が現れる気配はいっこうにない。ほとんど無用の砦でありながら、無用であるがゆえにいっそう、おこりえない敵の来襲が唯一の希望となり支えとなる。

ドローゴは初めは転任を考えるのだが、このいびつな袋小路のような砦にとりこまれ、抜け出せなくなる。最後には初老の副司令官となったドローゴだが、病におかされて、いざ望みの実現の時に、皮肉な結末を迎えることになる。

今の若い人たちには、砦という組織の前にドローゴが沈黙し、国境の守りという空虚な目的に順応してしまうのが解せないだろうと思う。しかし、僕にはまったく身につまされる物語だった。

今では戦後的な価値観として、相対化されてしまった一群の考え方がある。学校を出て、企業に就職し、そこで一生勤めること。実家をでて、結婚し核家族で子育てをすること。長期のローンをかかえてマイホームをもつこと。僕は、これらの高度成長期の幻想が力をもっている時代に育ったので、振り返ると、これらの幻想には判断停止でひれ伏してきた気がする。どうしても砦を離れられないドローゴと同じだ。

ただ、彼と違うのは、組織の中に完全に自我を埋没させることができずに、そこからはみだす自分を持ち続けていたことだろう。砦の中で、敵の来襲に備えるふりをしながら、別のことを夢見るというふうに。しかし、それができたのも、そういう個人の欲望に価値を置く新しい時代のおかげだろう。

砦から追放されたドローゴは、徹底的に絶望せざるをえない。そのために、一瞬、真の希望に手がかかったかにも見える。一方僕の方は、絶望することもできずに、相変わらず中途半端な希望をつぶやきつづけているだけである。

 

あるアイドルの話

妻からファンだと聞いていたのは、草川祐馬(1959-)というアイドルだった。ファンクラブにも入り、博多でコンサートにも行ったらしい。西城秀樹のものまねをきっかけにスカウトされて、1975年に歌手デビューをする。1978年に病気で一時休業した後、俳優として今も活動している人だ。

その話を初めて聞いたときに、おやっと思った。草川祐馬は、一時、僕の実家の近所に住んでいたからだ。国立の市街地は、碁盤の目のように区画された造成地だが、僕が生まれた頃は、ところどころ雑木林や大きな空き地が残っていた。近所の四つ角にも、公園くらいの広い空き地があって、正月にはたこあげをしたりした。そこも小学生の内には、何軒かの家で埋め尽くされたが、その中にひときわ立派な作りの家があった。

そこが芸能プロダクションの社長の家で、草川祐馬という芸能人が住み込みでいることは、いつのまにかうわさになっていた。ネットでみると、地元の中学に3年の途中で転校してきたようだ。僕は、家の前の道でバイクにまたがっている姿を何となく覚えているので、高校生までそこにいたのだと思う。実家からは、道沿いに三軒隣りという至近距離だ。その話をすると、なにより妻が驚いた。なんといってもあこがれのアイドルが、結婚相手のご近所さんだったわけだから。

「世間の狭さ」には、何度となく驚かされてきた。しかし、それが理論的な問いの対象になること、そして、そのことに「社会」を組みかえる可能性が秘められていることを教えられたのは、昨年、東浩紀の本によってである。だから、ちょっと下世話なエピソードを書きとめてみた。

 

あるスターの死

西城秀樹(1955-2018)が亡くなった。今までファンだったという話をほとんど聞いたことはないのだが、妻が相当ショックを受けて、喪失感にかられている。不謹慎な話だと思うが、昨年、疎遠だった実の兄が亡くなったときより、衝撃が大きいという。芸能関係では、ペヨンジュンが結婚した時以来のことだ。

僕も彼の昔の動画を見続けているうちに、妻の気持ちがわかってきた。僕と妻は同い年なので、彼のアイドルとしての70年代の全盛期を、小学校高学年から高校生までの間に体験している。僕は父親の考えで娯楽番組をあまり見せてもらえなかったのだが、それでも同時代の子どもたちと同じ空気を吸っていたから、毎回彼の新曲を心待ちにする気持ちは共有していた。これは、世代が違う人にはわからないだろう。

今はネットでたくさんの動画を見ることができるから、今回のニュースをきっかけに、当時の映像にくりかえし浸ることで、あの時代をありありと思い出す。そのために、彼の死という事実が、二度と戻らない自分たちの若かった時代という思いと重なって、喪失感を加速させるのだろう。動画のコメント欄には、そうした同世代の人たちの思いがつづられている。

だからこれは、テクノロジーによって新たにつくられた喪失感だといえるのかもしれない。本当は、40年前に終わったことで、その終わりを納得するだけの十分な時間はあったはずなのだ。しかし、今は、40年前のテレビ番組を手元で再生できる時代になった。こうしたテクノロジーと人間の欲望の行き着く先には何があるだろうか。

ワルターベンヤミンの『歴史哲学テーゼ』(1940)の中に、こんな記述があって、気になっていた。「人類は解放されてはじめて、その過去のあらゆる時点を引用できるようになる。人類が生きた瞬間のすべてが、その日には、引き出して用いうるものとなるのだーその日こそ、まさに最終審判の日である」 

宗教的な背景はともかくとして、ベンヤミンは、人間の根本の望みは、過去の瞬間のすべてを手にする(肯定する)ことにあるのだと喝破する。人は死んではならないように、人の生きた時間の全ても失われてはならないのだ。それがどんなに自然に反することであっても。

昔話を一つ。野口五郎が当時僕の好きだった「むさしの詩人」という曲を歌ったあとに舞台装置が回転して、西城秀樹が「ブーメランストリート」を歌い始めたテレビ番組の場面が、記憶に焼きついている。以前なら調べようもなかっただろうが、ネットがあるから、簡単にその時期が特定できた。41年前の春、受験も終わり、高校生活に期待しながら、のんびりテレビを見ている自分の姿が、そこに浮かんでくる。

 

冬の麦の根は地獄の底まで伸びている

大井川歩きなどと称して農耕地を歩くことも多いが、実は農業については何も知らない。そもそも自然の中でも、鳥や虫に比べて、植物の知識はまったく乏しいのだ。子どもの頃、小学館の学習図鑑でいろいろな知識を仕入れたけれども、植物の図鑑だけはなんとなく女子向きであるような気がして、敬遠していたツケが回ってきているようだ。

知り合いの種紡ぎ村の原田さんたちの農作業も見て見ぬふりをしていて、何年か前に一度田植えを手伝ったくらいである。この土地で、無理をせずに自分のできることを続けていく、少しずつ広げていくという方針があるから、仕方ないこととは思っている。農作業や散歩をするお年寄りだけではなく、施設に入所する人からも聞き書きをしてみたいと思いついたのは何年も前だが、最近縁あってようやくそれが実現した。トボトボ歩くペースで、物事はゆっくりすすんでいく。

以前つくった手作り絵本の主人公「ひろちゃん」こと、ひろつぐさんの家にたちよる機会が、この頃おおくなった。ひろつぐさんは、元高校の国語教師だけれども、盆栽や魚釣りが趣味で、裏の山では、たくさんの野菜を作り、鶏を飼い、養蜂までしているスーパーマンだ。ふと、いつか覚悟を決めて弟子入りして、いろいろ教えてもらいたいという気持ちが芽生える。文弱の自分には、はじめてのことだ。

近所を歩き回るようになって、はじめて麦秋ということを覚えた。今がその季節だ。畑には小麦色の麦がきれいに広がっている。まさに収穫の秋という感じ。しかし麦のない畑もある。そもそも麦はいつまかれたのだろう。いろいろな疑問がわいてきて、あかね書房の科学のアルバムシリーズで『ムギの一生』を読んでみた。

世界で作られる穀物は、ムギとイネ、そしてトウモロコシ。イネは高い気温と水分が必要だが、ムギは乾燥を好み、冬の寒さがないと成長しない。ムギは粉にして食べるが、イネは粒のまま食べる。言われればなるほどと思えることがわかりやすく書いてあって、面白かった。

タイトルの言葉は、東北出身の著者が伝え聞いていたもの。今年の秋には種まきやムギ踏み、そしてムギの冬越しの姿にも注目してみることにしよう。

 

『新哲学入門』 廣松渉 1988

5月22日は廣松渉の命日だから、追悼の気持ちで、さっと読み通せそうな新書版の入門書を手に取った。欄外のメモをみると、以前に三回読んでいる。今回は、20年ぶりの四回目の読書となった。

廣松さんは、僕が若いころ、唯一熱心に読んだ哲学者だ。他の有名哲学者にも手をだしたけれども、読みかじったという程度である。廣松さんの著作を通じて、哲学というものを知ったことを、今では幸運だったと思う。そうでなければ、哲学を自ら思考するものとは考えずに、有名哲学者の言葉や論理の口まねをすることだと勘違いしていたかもしれない。

廣松さんの本は、たとえ入門書であっても、独特の漢語と翻訳語が多用されていて、一見とてもとっつきにくい。哲学の伝統はもちろん諸学の成果を援用しながら、独自の理論をつくりあげる。しかし、事象そのものから出発して、世界の在り方を解明しようとする手順は、実はおどろくほどていねいで、どこまでも粘り強い。

「例えば、小学生時代の友人にバッタリ会ったとします。瞬間的に同定でき、そこでの知覚像とは別に表象像など浮かばないのが普通でしょう」(49頁)

何日か前のブログで、小学校の級友と遭遇したことを書いたばかりなので、この文章には驚いた。僕は級友を「同定」できたけれども、級友はそれができなかった。僕はその小さな事件に何かがあると感じて、勝手な連想を書き連ねたが、廣松さんは、この事例から出発して、認識や意味についての緻密な説明をつみあげていく。ちなみに、「表象像」とは、級友の小学校時代の写真やイメージといったもののことで、たしかに僕は、そんなものを思い起こす必要などなく、今の風貌の彼を瞬間的に級友と認めたのだ。

「今、例えば、農夫が孤独に畑を耕しているとします。畑は彼自身の拓いたものではなく、農具も彼自身の作ったものではなく、農耕動作も彼自身の案出したものではありません・・・彼の〝孤独な農作業〟は、実態において〝多くの人々との協働作業〟とも謂うべきものになっております」(161頁)

こうした田園の風景は、今僕が大井川歩きで向き合っているものだ。僕自身も、自分の孤独な歩みを、多くの人々との協働作業という場所につなげたいと考えている。そういうときに、我々の目の前に広がる世界の真相を説明しつくそうとした廣松渉の仕事は、きっと多くのヒントを与えてくれるにちがいない。

 

 

 

『張込み』 松本清張 1955

新潮文庫の短編集『張込み』を読む。1950年代後半に発表された推理小説を収めたものだが、今から見ると、全体的に、小説としては構成が平凡だったり、トリックや謎解きが不自然だったりして、やや魅力に乏しく思える。

それでは何が面白いのかというと、終戦後間もない時代の世相と、そこを生きる様々な人間が、広角レンズのような視野の広さで描かれているところだ。

『一年半まて』では、ダムの建設現場を渡り歩く労働者を相手に商売する、したたかな保険勧誘員の女性が登場する。『顔』には、映画スターの名声を手にしかけた男のあせりが描かれる。『声』でカギとなるのは、電話交換手がもつ特技だ。『地方紙を買う女』では、ソ連に抑留されている夫の帰国が事件のきっかけとなる。『鬼畜」は、印刷所の渡り職人が主人公だ。『投影』には、地方政治の醜態とタブロイド新聞の記者の活躍が描かれる。『カルネアデスの舟板』は、戦後に節操なく転向する歴史学者の生態がえぐられる。

表題作は、犯罪者を追って地方に出張する刑事の話だが、総じてどの話にも、今とは比較にならないくらい大きな、東京と地方との距離や格差が見え隠れしている。

ここには、階層の上下を問わず、また老若男女を問わず、様々な人間がリアルに描き分けられる。また、今では存在していない職業や、歴史的な知識なしに理解できない出来事があちこちに顔をのぞかせる。この間口の広さの背後には、作者の旺盛な好奇心と優れた観察眼があるのだと思う。

 

受け入れる勁(つよ)さ

二カ月くらい前に、安部さんから、「玉乃井塾」を一度開きたいと声がかかった。

安部文範さんと知り合ったのは、今から20年くらい前のことになる。「福岡水平塾」という差別を考えるグループの月例会だった。差別問題の元活動家が中心だったが、メンバーの中には新聞記者や教員などいろいろな人がいた。異色なところでは、『セカチュー』がベストセラーとなる前の小説家の片山恭一さんが姿を見せる時もあった。

安部さんは、当時美術コーディネーターや翻訳家を名乗っていて、新聞に美術評や映画評を書いていた。僕より10歳ばかり年長で、学生運動の荒波を潜り抜けてきた世代だ。その体験から昇華された格率を大切にしているのが、つきあいを深める中でわかってくる。

正義や社会問題から身を遠ざける。「代理告発」はせずに、当事者としてのみ考える。後で聞くと、そういうことが現実に可能な場として、水平塾との出会いがあったのだという。水平塾の活動が無くなったあとで、僕は個人的に、安部さんの住む旧旅館玉乃井で、個人塾のような集まりを開かないかと提案した。それは形を変えて、「9月の会」という勉強会になって、断続的に10年以上続くことになる。

水平塾以来考えてきたことだから、と安部さんが渡してくれたレジュメの表題は、「受け入れる勁さ」というものだ。そこには、当事者として世界に向き合うという格率を深化させてきた言葉があった。

 

「不幸があることはどうしようもない。世界は不条理そのものだ。理不尽は、悪は、世界のあり方として避けようもなくあり続ける」

「受け入れる勁さを持つにはどうしたらいいのか、という問いには明解な答えはないだろうが、でもあるひとつの答えはだせると思う。くりかえされる日常のなか、生活の細部にも穏やかな視線を送り、詳しく知ること、深く愛すること。そこには家族への思いやり、家事への尊敬もはいってくる。〈仕事〉に力を使い果たすのではなく、日常生活にこそ力をいれ、丁寧にかかわり、ひとつひとつをたいせつにし、時間をかけて具体的に、身体として関わっていく。つまり生きるということにきちんと向きあい具体的に関わること。そういうなかからほんの少しずつつくられていくものでしかないだろう」

 

山口瞳の家

地元の国立には、小説家山口瞳(1926-1995)が住んでいて、町の名士だった。彼の家は、実家から歩いて5分ばかりの住宅街の一角にあったのだが、当時は子ども心にとても斬新で、近未来的なデザインに思えたものだ。

ふだん用の無い場所なので、本当に久しぶりになるが、散歩で足を向ける。まだ残っているだろうか。狭い路地をあてずっぽうに歩いただけなのに、ピタリと家の前にでた。コンクリート打ち放しに曲面の屋根をつけた本体に、和風の家屋を組み合わせた不思議な形だが、こんなものだったかなと思う。思ったより、小さくて大人しい。ただ、実際に歩いたおかげか、半世紀ぶりに、こんなシーンが鮮やかに浮かんできた。すっかり忘れていた出来事だ。

夏の夜。花火で遊んでいる。場所は自分の家ではなく、姉の友達の板橋さんの家のようだ。姉たちが、山口瞳の家を見に行こうと相談して、僕も連れていってもらう。街灯に照らされたバス通りをかけぬけると、やがて路地の暗がりに、宇宙基地のような家が姿を現す。

だいたい僕は、記憶はあまりいい方ではない。しかし、この夜のことは夏の夜の空気が肌に感じられるくらい生生しく蘇ってくる。


*後日姉に確認すると、板橋さんは、家を建て直す時に山口瞳の家の近所に仮住まいしていたそうだ。僕が幼稚園児の頃だろう。それならつじつまが合う。花火の後に板橋さんを送ったか、あるいは板橋さんの仮住まいの家で花火をしたのだろう。


 

 

面影がない

その時H君に声をかけたのは、故郷に対する「一期一会」のような思いと、なにより、見知らぬ人と交流する経験のたまものだと思う。H君は、帰省のとき、それまでも一、二度見かけていた。小、中学生の同級生で、頭髪が薄くなっている以外、子どもの時の表情そのままだったので、街ゆく人々から浮き上がって、すぐに彼とわかった。

「Hさんですか」彼は、振り向いてポカンとしている。「同級生の〇〇ですよ」それでも、彼から当惑の表情は消えない。彼は、次に、そらで何かを思い出すように、こうつぶやく。「〇〇△△君・・・▢▢大学に行った・・・」そう、そうと僕は勇んで答える。「面影がない・・」

そのあと少し会話して別れたけれども、H君から、懐かしそうな感情が湧き出す瞬間はついになかった。僕は、少し途方に暮れたような気持になった。自分は年相応の風貌で、特別に老けたりはしていないつもりだった。しかし中三でクラスで一番小さかった身長は、その後180センチ近くまで伸びた。体格だけでなく、容貌の変化もかなり大きかったのかもしれない。

考えてみれば、子どもの時の「自分」の記憶なんてかなりあいまいになっており、当時の写真や日記を見ても、それが今のこの自分と同じ人間である、という揺るがぬ確信があるわけではない。他人から、お前はあのときの「自分」ではない、と否定されてしまったら、過去の「自分」なんて錯覚ではないかと思えてくる。

他人から見捨てられ、頼りの記憶すら失ってしまったら、この自分はどうなるのだろうか。過去から切り離されて今だけを生きる、一種の動物のようなものになってしまうのだろうか。

いやそうではない、と僕は思う。最後に残るのは、環境の記憶、一歩一歩地面を踏みしめることで作った土地の記憶だ。子ども時代の「自分」に関する記憶があいまいになった今でも、故郷の街並みを歩くとき、しっかりとしたきずながあることに気づく。この土地とのきずなこそ、自分らしさの核になるものだ。

「宅老所よりあい」の村瀬孝生さんは、お年寄りの時間と空間(の見当識)は、住み慣れた自宅に血肉化していると言っている。またお年寄りが道に迷い、「徘徊」などと言われてしまうのも、なじみの街並みが変わった結果だと言う。だから、その人らしさを大切にするために、少しでも長く自宅で生活してもらうようにするのだと。

 僕がふるさとの「面影」を忘れないうちは、僕自身の「面影」を失うことはない、とひとまず安心しておこうか。