大井川通信

大井川あたりの事ども

渡辺豆腐店のおじさん

実家に帰省したときには、早朝周囲を散歩する。「本業」の大井川歩きより、はるかに熱心になる。もともと機会が少ない上に、事情があって、いつまで帰省できるかわからない。そうなると、目を皿のようにして、風景の中に、記憶の痕跡をみつけようとする。

バス通り沿いの古い木造の豆腐屋さんの前を通ると、おじさんが店先に立って、通りを眺めている。大井川歩きで鍛えた気軽さで、声をかけてみる。以前なら、目を伏せて通り過ぎていただろう。

おじさんは、昨年お店をやめたそうだ。小さな店構えは、僕が物心ついた頃からまったく変わっていない。ここ数十年、周囲の住宅街が、ピカピカに豪華になっていく中で、ずっと時が止まったように昔の姿を守っている。

子どもの頃、買い物に行くと、水槽の底からまな板で豆腐の四角いかたまりをすくい取って、その場で切り分けてくれた。自転車の後ろに豆腐の箱をのせて走る姿を、遊んでいる街角でよく見かけた。

当時おじさんは、いかにも職人といった無口な風貌だったが、今はニコニコしたおじいさんになっていて昔の面影はない。同級生だった息子さんのことや、おなじクラブの顧問の先生の名前を出して、いくらか話をする。

豆腐屋は朝が早いから、長年の習慣で、店先に顔を出しているのかもしれない。僕が知っているかぎりでも、50年以上、ここでお店をしてきたのだから。

 

パルムドール受賞

カンヌ映画祭で、是枝裕和監督の作品が最高賞を受賞したそうだ。特別に映画好きでもなく、もちろん監督とは一面識もない自分が、そのことでちょっと心がざわついてしまう、というのが我ながらおかしい。

ある時、是枝監督が、同じ高校の一学年後輩だったことを知ったのだ。それ以来、映画についての話題の時には、実は是枝監督は・・・と、つい自慢してしまったりする。自慢だから、もちろん気分がいい。と同時に、同じあの校舎を出発点としながら、平々凡々の人生を送っている我が身と引き比べて、内心、嫉妬の感情がわきおこりもする。監督は順調に業績をつんでいるから、華々しいニュースが届くたびに、正負両面の感情で心がざわつくのだ。(笑、と文末につけたいところ)

他者といっしょであることに安心したり、得意になったり。他者に差をつけることが快感だったり、差をつけられることで落胆したり。難しく言うと、「同一化」と「差異化」というのだろうか、この二つの原理の間でふらつくのは、人間という生き物の成り立ちから考えて、やむを得ないことだと思う。

どうしようもないことだから、宗教や格言が、自分と他人と比べるな、とすすめ、哲学や倫理が、仲間内でない他人を迎え入れろ、と命ずるのだろう。

僕の母校は、武蔵野にある都立高校だ。玉川上水が近く、当時は、周囲に畑や雑木林も残っていた。故郷から遠くはなれて生活しているから、同窓生に接する機会はまずない。それが、数年前、仕事上の懇親会で隣に座った地元の歯科医が、偶然にも二学年下の同窓生だったのだ。いっしょに校歌を歌い、気持ちよく酔った。

「林を出でて、林に入り、道尽きて、また道あり・・・」

その時のことを思い出すと、後輩を素直な気持ちでお祝いできる気がする。是枝監督、パルムドール受賞、おめでとうございます。

 

長崎港のクルーズ船

長崎の街の対岸のホテルから港を見下ろす絶景で、そこに異様なものが見えているのに驚いた。巨大クルーズ船だ。細長い長崎湾を埋め尽くすような勢いで、建造物として見ても、街のビル群を圧倒する巨大さだ。小さな街の路地に、不釣り合いに大きなゾウが入り込んでいる感じ。

今では年間200隻も入港しているそうだから、長崎市民にとっては見慣れた風景になっているのかもしれない。しかし、それもここ何年かの出来事のはずである。この異様な風景から、いくつか考えることができた。

かつて中国人観光客の「爆買い」が話題となったが、どこまでお金を落としてくれるかはともかくとして、この観光客の量は、観光地にとって間違いなく魅力だろうし、なくてはならないものになっていくだろう。これはとんでもないドーピングではないのか。

しかし日本経済は、従来からあまり人目に触れないところで、巨大貨物船やタンカーによる原材料や工業製品の圧倒的な輸出入によって支えられてきたわけである。観光だから、たまたま目に触れるようになっただけなのだ。その一部だけを目障りに思ってはいけないだろう。

しかも、やってくるのはモノではなく、ヒトである。彼らは何事かを身をもって体験し、それを持ち帰るだろう。トラブルもアクシデントも込みで。そこに何らかの可能性がある、いや、もはやそこにしか希望はないことを『観光客の哲学』という本は主張してはいなかったか。

しばらく目を離した隙に、巨大クルーズ船は、そそくさと姿を消してしまっていた。

 

ホトトギスが鳴いた

5月16日の日中に、ホトトギスの初音を聞く。ほんとのことを言うと、先週くらいからそれらしき鳴き声をかすかに聞いていたのだが、まちがいなくホトトギスと認識できたのは初めてだ。手元のメモを見ると、昨年は5月12日、2015年は5月13日、2014年は5月18日とあるから、ほぼ5月中旬の今の時期なのだろう。

まず、馬場浦池の松の梢あたりに、ヒヨドリに似た飛ぶ鳥を見つける。ヒヨドリよりスマートな姿で、ヒヨドリほど波打たずに直線的に飛び去る。続いて、どこからか、ホッケッ、キョキョという特徴ある鳴き声が。

たいてい初音は、真夜中の窓で、寝静まった街を鳴きながら飛びすぎるのを聞くことが多かった気がする。「ほととぎす平安城を筋違(すじかい)に」という蕪村の句の真意がすとんとわかったのは、その時だ。碁盤の目のような街の区画を、ななめに横切るホトトギスの姿を大胆にとらえている。

平安貴族の間では、ホトトギスの初音を争って聞くのがブームだったそうだし、江戸時代には「目には青葉山ほととぎす初がつお」(山口素堂)の句が名高かった。決してきれいとか、美しいとかいう鳴き声ではないのだが、人の心を浮き立たせるような(時に不安にさせるような)力を持っているのは確かだ。

 

「かっちぇて」のある場所

片山夫妻の主宰するたまり場「かっちぇて」を訪ねる。

長崎に仕事で行って、その空き時間を利用したのだ。前日にメールをすると、片山さんたちは運悪く不在で閉まっているとのこと。ただ、僕は、彼らの見つけた場所に興味があったので、地図とカンを頼りに坂道の街を訪ねることにした。

結論から言うと、それがとても良かった。石、石、石の存在感。石垣には、ごつごつした石が無造作に積み上げられ、石畳にも、石段にも、大ぶりで不ぞろいの石が波打っている。塀に囲まれた「かっちぇて」は、地元で「坂段」と呼ばれる斜面にある古びた要塞のようだ。見上げると石が支える街は、はるか頭上まで続いている。子どもたちは、足の裏で石の傾きを感じながら、この「かっちぇて」に駆け上ってくるのだろう。なんだか、ちょっとうらやましくもある。

僕が演劇ワークショップで通った北九州市の枝光も坂の街だけれども、谷の深さも坂の長さも路地の複雑さも、こちらがはるかにまさっている。なによりその深い傾斜を大量の石を積み上げることで克服した力技がきわだっている。街を見下ろす神社やお寺の境内も、石を積み上げた神殿のようだ。

坂段の下の道にある町屋カフェ「つむぎや」に入って、ゆっくり美味しいランチをいただく。店主は片山夫妻ともお付き合いがあって、二人についての話を聞くこともできた。

片山さんは、「子どもたちは、どんな場所でも、なにもなくても無駄に遊ぶ」と話す。それが本来の彼らの姿だと。しかし、それは大人も同じだろう。僕も、この坂段の街で数時間、何の目的もなく、無駄に楽しむことができた。

FBを見ると、片山さんは、「かっちぇて」で使っている住居の元の主が画家であることを知り、彼の絵画の里帰りの展覧会を実現したようだ。本来の活動とは一見無関係のようだけれども、土地や家の歴史につながろうという感覚はとても貴重だと思う。子どもの遊び場づくりという目的をもった活動に限れば、彼らよりもっと上手に効率的にこなすグループはあるのかもしれない。「無駄」や「寄り道」にていねいに向き合う姿勢が、彼ら独自の魅力なのだと思う。

 

親子は別れてはいけない

春、巣作りから始まるツバメの献身的な子育てが、間近で続いている。しかし、巣立ち後まもなく、親であり子であった事実は忘れ去られるだろう。

以前、内田樹のこんな言葉に救われたことがある。生物学的にいえば、親の唯一の役割は、こんな親と一緒にいると自分はダメになると心底子どもに思わせる(そして自立を促す)ことなのだと。だとしたら、僕も、十分親の役割を果たしたことになる。

30年以上前、僕も両親の献身的で生物学的に正しい子育ての結果として、当然のように家を飛び出して、遠方の地に来た。だから、自分の子どもが、ある年齢になると、親から距離をおき、家から出たがり、そして実際に出て行くことを、当たり前のこととしてながめていたし、そうながめざるを得なかった。

しかし、実際に彼が家を出て行ったとき、その出来事の家族にとっての大きな意味に驚愕することになった。多くの親子がこんな衝撃の出来事を、平然とやり過ごしていることが信じられない、と思えるくらい。(実は誰も平然となどしてなかったのだろう)

20年間、濃密な関係の下にあった家族が、任意の選択で、不可逆的に赤の他人に等しい別々の生活に入る。それは、人が死すべき存在であるのと同じく、自然過程と言えるかもしれない。にもかかわらず、「人は死んではいけない」と叫ばずにはいられないように、「親子も別れてはいけない」のだ。そうして、離れ離れに、しかしいつまでも親子の絆にとらわれつつ、生きていくことになるのだろう。

そのことに、子としてはだいぶ遅くなって、親になると身にしみて気づくようになった。

 

人は死んではいけない

開発が進むこの地域にも、大型の鳥の姿を見かけることは多い。トビや、アオサギやカワウなど。カラスだって、けっこう大きい。彼らの一羽一羽は、生まれ、育ち、老いて、死んでいっているはずだが、その死骸を見る機会はめったにない。残された森や里山の奥で、飛ぶことをやめ、苦しみ、ひっそりと死んでいくのだろう。

鳥見が好きな人間であっても、その一羽一羽の死について思いを致すことはほとんどないだろう。種として、その姿を見ることができれば安心して喜ぶ。生き物の生死流転の相を平然として観察している。そのことを考えると、少しぞっとしてしまう。

ところが、人間は、他者の一人一人を意識し、自分がそうした一人一人であることを自覚してしまった生き物だ。そうなると、一人一人は死んではいけない存在になる。死んではいけないにもかかわらず、しかし死んでしまう存在になる。前者の原則(本質)と、後者の事実(現象)との間の巨大な溝の間に、なんとか折り合いをつけて橋を渡そうと四苦八苦するのが、人間の営みとなる。

「人間の命は地球より重い」とか「基本的人権の尊重」とかいうのが、人間の本質側を深めた結晶のようなものだろう。そこから、弱く、もろい個人の身体に向けて渡された橋が、家系や血脈であったり、国家や共同性であったり、宗教や死後の世界であったり、未来や永遠の観念だったりするのだろう。

 

大型の鳥を見るまでもない。住宅街にも街中にも田畑にも、小鳥たちの無数の命があふれている。そこには、命と同数の死がまぎれていて、生と死を見分けることはできない。

 

生死巌頭に立在すべきなり

日付を見ると、2001年6月29日とあるが、朝日新聞夕刊の「一語一会」というコーナーに、今村仁司先生のエッセイが掲載された。仏教哲学者清沢満之の言葉を取り上げたもので、清沢の原文は次のように続く。「独立者は、生死巌頭(しょうじがんとう)に立在すべきなり。殺戮餓死固(もと)より覚悟の事たるべきなり。若(も)し衣食あらば之(これ)を受用すべし。尽くれば従容餓死すべきなり」

「これは仏教者清沢が無限の境地にたち、しかも激流のごとき現世を生き抜くときの覚悟を示す言葉である・・・それは厳しすぎる言葉だが、また強い激励を与えてくれもする」

今村先生が闘病しながら最期まで仕事を続けたときにも、おそらくこの言葉が座右にあったに違いない。

記事は、カラーの挿絵付きの瀟洒な仕上がりで、先生の文章も調子の高い、力のこもったものだ。当時、父親もたまたまこの記事を読んでいて、帰省した時、切り抜きを渡してくれたのも忘れられない。息子の学生時代の恩師の名前を覚えてくれていたのだろう。

 

学の道

今村先生は、晩年、清澤満之の著作との出会いを通じて、仏教の研究にも取り組むようになった。清澤満之の全集の編集委員を務めたし、清澤関連で3冊を上梓し、最後の出版は親鸞論だった。その中で、新しい人との出会いも多くあったようだ。ネットを見ても、印象深い思い出を語っている人がいるので、引用させていただく。

 

私には忘れることのできない先生の言葉があります。「ひとたび矛盾や存在という言葉を使ってしまったら、もう自分が何を思おうと、それは学の道に入っているということなのです。それを自覚することが重要です」・・・私がたとえ未熟でありながらも、これからも学の道を歩み続けようと決意したのは、この言葉を聞いたときでした。この先生の声はこれからも消えることはないでしょう。(「先生の声」親鸞仏教センター嘱託研究員 田村晃徳)

 

僕がわずかに知る範囲でも、先生は、むしろやんちゃといっていいようなキャラクターと親しみやすい風貌で、重厚な思想家という雰囲気ではなかったと思う。また、膨大な知識と論理の人だったから、親切に人を「学の道」に導くような教育者でもなかった。ただし、「先生の声」には、思考することの魅力を直に伝えて、人を考えることに誘うところが確かにあった。僕も、今でも、何事かを考えようとするとき、先生の言葉に支えられているのを感じることがある。

 

 

お風呂場のデリダ

今村仁司先生の講義を聞くようになった大学の後半、僕は、地元の友人たちといっしょに公民館で地域活動にかかわるようになった。70年代に「障害者自立生活運動」が巻き起こった土地だったから、当時周囲にはアパートで自立生活をする「障害者」とそれを支える活動家たちもいて、やがて僕も介助に入るようになった。まだ、理論や思想が、気分として社会変革と結びついている時代だった。

就職してまもなくの研修期間中に、東経大に今村先生を訪ねたことがある。国分寺の居酒屋で先生と二人でお酒を飲んだ。暴力を理論的に研究している先生に向かって、僕は具体的な差別のことを考えたいと話した記憶がある。(今でもその時の宿題が気にかかっている)

その後遠方の支社勤務となり、すぐに学生時代の勉強が実社会では何の力をもたない、というより、そもそも実社会向きの力が自分には欠けていることに気づかされた。それでも、読書を続けたのは、それが唯一の自分の支えだったからだろう。

以下は、就職して2年目の、1985年の春に書いた散文詩めいた断片。

 

デリダが来日した時、ゼミで先生がデリダの講演の印象を話してくれた。興奮した僕は、その晩、お風呂介助に行ったアパートで、Mさんをお風呂に入れながら、デリダの話に夢中になる。湯舟の中で黙って聞いていたMさんは、不意に口を開くと、ゆだったからもう出たいとつぶやいた。/会社の近くの喫茶店で、昼休みにデリダの『ポジシオン』をちょうど100頁まで読んで、そのままになっている。ウエイトレスの〈諸岡さん〉が、そのあたり、しおり代わりにはさんであって」