大井川通信

大井川あたりの事ども

『タタール人の砂漠』 ブッツァーティ 1940

読書会の課題図書。ブッツァーティ(1906-1972)はイタリア人作家。カフカの再来とも言われるらしいが、ある辺境の砦をめぐる寓話的な作風で、とても面白かった。

主人公のドローゴは、士官学校を出たあと、辺境の砦に将校として配属になる。砦では、軍隊式に秩序正しく警備が行われているが、国境の北の「タタール人の砂漠」と呼ばれる荒地から、敵が現れる気配はいっこうにない。ほとんど無用の砦でありながら、無用であるがゆえにいっそう、おこりえない敵の来襲が唯一の希望となり支えとなる。

ドローゴは初めは転任を考えるのだが、このいびつな袋小路のような砦にとりこまれ、抜け出せなくなる。最後には初老の副司令官となったドローゴだが、病におかされて、いざ望みの実現の時に、皮肉な結末を迎えることになる。

今の若い人たちには、砦という組織の前にドローゴが沈黙し、国境の守りという空虚な目的に順応してしまうのが解せないだろうと思う。しかし、僕にはまったく身につまされる物語だった。

今では戦後的な価値観として、相対化されてしまった一群の考え方がある。学校を出て、企業に就職し、そこで一生勤めること。実家をでて、結婚し核家族で子育てをすること。長期のローンをかかえてマイホームをもつこと。僕は、これらの高度成長期の幻想が力をもっている時代に育ったので、振り返ると、これらの幻想には判断停止でひれ伏してきた気がする。どうしても砦を離れられないドローゴと同じだ。

ただ、彼と違うのは、組織の中に完全に自我を埋没させることができずに、そこからはみだす自分を持ち続けていたことだろう。砦の中で、敵の来襲に備えるふりをしながら、別のことを夢見るというふうに。しかし、それができたのも、そういう個人の欲望に価値を置く新しい時代のおかげだろう。

砦から追放されたドローゴは、徹底的に絶望せざるをえない。そのために、一瞬、真の希望に手がかかったかにも見える。一方僕の方は、絶望することもできずに、相変わらず中途半端な希望をつぶやきつづけているだけである。