大井川通信

大井川あたりの事ども

死と自然

僕は村の賢者原田さんのことを「世界的」宗教家だと思っている。世界的なカトリック神父押田成人の弟子だったことからの半ば冗談だし、実は原田さんは師匠のことをあまり評価していない。

世俗の中で、純粋な宗教的感性を維持することはとても難しい。だから、人は教団や結社をつくり、制度や教義の砦のなかにたてこもる。しかし砦のなかにこの世的な価値観や秩序が密輸入されると、堕落と変質がはじまる。

原田さんが偉いのは、20代までの宗教的な遍歴のあと、会社員を経て現在まで、ずっと世間に我が身をさらして生きていることだ。そんな世俗の現場でみずみずしい言葉と思想を生み出していること自体に、「世界的」で「普遍的」な意味があると思う。有名教団の中で地位を得るなんてことには、ローカルな意味あいしかない。

昨日、村チャコで原田さんと話していて、現代人が宗教を忘れたのは、「自然」と距離を置くようになったからだという話になった。農作業で植物の姿に触れる。その生命の不思議と謎に魅せられる。問いを突きつけられる。そこに宗教がある。

これに付け加えるとすれば、「死」との出会いだ。僕は、前の日に火葬場で自分の死が確実であることを実感した話をする。すると原田さんは、昔長野の伊那の山深い集落で暮らした時のことを教えてくれた。

その集落の火葬場には、大きな平たい石があって、亡くなった村人の棺は必ずその上に置かれるそうだ。原田さんは、その冷たい石の上に寝そべって、空を見上げてみたことがあったという。死者たちと自分を重ねることで何かを感じたのだろう。

死と自然とに向き合うのが宗教だとすれば、それは当たり前にどこにでもあることだ。それを避けて生きられると集団で錯覚しているのが現代人なのかもしれない。身近な土地の人々と自然に付き合いながら、そんなことを考える。