大井川通信

大井川あたりの事ども

『アクティブラーニング』 小針誠 2018

今流行のアクティブラーニングについて、明治以降の教育史にさかのぼってルーツをさぐり、こまごまとした事実をとりあげて、要領よく整理してある。今になって、アクティブラーニングがことさら取り上げられる要因をあげて、それがもたらす効用の多くが幻想であると、逐一批判している。新書一冊だが、この中には、雑多な事実と観念の断片がつめこまれている。教育の現状を理解するために必要な情報ということなのかもしれないし、著者がまじめな学者であるというのは伝わってくる。

しかし、なんだろう、この焦点がぼやけた感じは。かんじんなことについて、まったく手が届かないままに読み終えた徒労感。そう、下手な一斉伝達型の授業を受けたみたいな印象なのだ。これは、著者が、というより、教育学者の通弊であるような気がする。国の方針について、同調的か、批判的かということは表面的なことだろう。ここには、「正しいこと」をずらずらと並べ立てれば、それだけで何かが伝わるはずだ、という学校現場ではとっくに捨てられた古臭い信念があるみたいだ。自分の一般向けの著作の中にさえ、新鮮な学びを発動させる仕掛けをつくれない学者が、国レベルや学校での学びについてあれこれ書いても説得力がない。

著者は、結論部分で、あれもこれもという勢いでアクティブラーニングの問題点を指摘する。たとえば、それが強者の論理で、弱い子どもを切り捨て、格差を生み出す危険がある。あるいは、アクティブラーニングでも、子どもの主体的な意欲など引き出せないケースがあるはずだ。それが、全体主義や国家の方針に利用される危険性がある。もっと十分な議論と制度設計をするべきだ。そもそも国家の主導の改革は間違っていて、主役は子どもたちと教師であるべきだ。

しかし、これらはアクティブラーニングの問題点というよりも、現状の教育自体の問題点だろう。しかも、ある意味間違ってはいないが、手垢のついた、誰でも言えるような問題点だ。こまごまとした記述につきあった上に、こんな予定調和の結論が述べられたら、だれだって徒労感を免れない。

今はバラ色の未来や未来への特効薬など信じている人などいないだろう。ただ、自分のかかわる現実がある以上、その実際の現場をよりよくしようと試行錯誤する。それは政策決定者にしろ、現場の教師にしろ、地域で活動する人たちにしろ、同じことだ。そうした現場からのみ、新鮮な問いがうまれ、学びが立ち上がり、その学びが、他者を動かす力となるのだと思う。