大井川通信

大井川あたりの事ども

教育学者という謎

人は誰でも、自分の体験から作り上げた「色メガネ」というものを持っている。僕の場合、教育学者の話はつまらない、というものがそれだ。

僕はたまたま、現場の教員や教育学者の話を聞く機会を多少もっている。学校の先生は、どの世界でもそうであるように、優秀な人もいればそうでない人もいる。中には、人となりや考え方に思わず引き込まれてしまうような人もいる。しかし、教育学者の話は、ほぼつまらないと相場が決まっている。ある時、これは構造的なものでないか、と考えるようになった。

僕は、評論好きということもあって、学問や学者といったものには、あこがれや好意をもっている。にもかかわらず、教育学は、他の学問とどこか肌合いが違うのだ。いろいろ考えてみて、その理由に思い当った。

世界の成り立ちや本質について疑問をもった人間は、哲学を勉強し、哲学者になるかもしれない。社会とは何かという問いをもった人間は、社会学者になるだろうし、歴史や経済や心理に関心がある人間は、歴史学者や経済学者や心理学者を目指すだろう。それぞれの学問は、その対象領域に対する固有の問いに支えられている。

しかし、教育とは何か、という問いが、ふつうに人間の心の中に生まれるものだろうか。仮に教育というものに関心がある人間がいるとしたら、まっさきに教員になろうとするだろう。そして教員というポストは世の中に潤沢にある。教育学者には、対象分野に対する生き生きとした問いが欠けている(ように見える)というのが、その話が面白くないことの大きな原因だと気づいた。

昨日も教育学者の本について酷評してしまったが、根本的な問いがないから、どうしても雑多な知識や観念の寄せ集めになって、力強い思考の働きが影をひそめることになる。

そして、もう一つ。教育学者には、全国の教員(たしか百万人ほど)と教員予備軍という固定客がいるということだ。どちらも教室に順応できている人たちだから、どんな話でも従順に聞いてくれるし、本も買ってくれるだろう。他の学問には、こんな上客はいない。しかし、固定客が与えられているということは、競争原理が働かずに堕落しやすいということでもある。ちなみに、普通の教員にとって、子どもたちはもはや上客ではない。つまらない授業をしたら、たちまち学級崩壊を起こすような相手である。

ところで、教員養成に携わり、現役の教員の研修を行うのは、教育学者たちだ。仮にそこで、学ぶことのイメージをつたえそこなったら、全国的にその損失は計り知れない。それは文科省の教育施策以前の根本的な問題だ。そういう当事者意識を、教育学者はもっているのだろうか。