大井川通信

大井川あたりの事ども

著者への手紙 ー『クラウド環境の本質を活かす学級・授業づくり』(大村龍太郎 2023)

本のなかで、「丁寧に日々をつむいでいく」という言葉もあって、あらためて共同体的な価値観が大村さんの中に息づいているなと実感しました。人気学者のなかには、一般人に対してたしか「探求的エピステモロジー」なんて無骨なキーワードを投げ出して平気な方もいるなかで、大村さんの「実意丁寧さ」は際立っていると感じました。

しかし、あらためて後半の内容を読むと、小学校教育の公的なプログラムの中に、「助け合う」「感謝する」等の共同体的な価値観が横溢していることに気づかされて、ちょっと不思議な気持ちになりました。

大村さんは、「自由の相互承認」と「共同体感覚」という総括の仕方をしていますが、人間を育てる中で、後者を無視することはできようもないし、実際に現場での存在意義は大きいのだろうと思います。

しかし実践的な意義の大きさにもかかわらず、その原理的な追求がなされていないのではないかという気がします。この「共同体感覚」を原理的な形で徹底して把握しているのが江戸末期の民衆宗教(金光教等)ではないかというのが私の見立てです。

たとえば、「学ぶ」というふるまいも普通なら「自由の相互承認」の側に基礎を置いているように見えるけれども、もしかしたら「共同体感覚」の側の比重が大きいのではないか。大村さんの学びの動機やあり方を見ていると、「人と良いかかわりをしたい、良いものを共有したい、そうすることで人々の役に立ちたい」という共同体感覚からきているような気がするのです。

私は最近ようやく鈴木大拙を読むようになって、今になって感心しているのですが、東洋の学びは「人格の完成」を目指すという言い方があって、知識を増やし成果を上げるということだけではなく、大村さんは明らかに東洋的な学びの学徒であるような気がします。私のような年齢の学び手にとっては、ましてなおさらそうです。

鈴木大拙は、世界を股にかけて活躍した人ですが、西洋の世界を分割してみる観方(分割の結果、見ることの精度は高まるが、個同士の対立と抗争が高まる)に対して、東洋的な観方は、世界の分割以前の一の世界に直につながることだといいます。このためには非言語的なアプローチも必要になります。

ひと昔前の自分なら、何馬鹿なことをいっているのだと一蹴してしまいそうですが、これを共同体感覚の原理的な表現と考えると大切なことが言われているような気もします。

近代ヨーロッパの「自由」という原理は、世界を無から何の制約もなく生みだしたというキリスト教の神様をモデルにしたものだろうと思います。しかし神ならぬ人間にそれを持たせた場合には、当然相互の調整が必要になるということでしょう。

一方、日本の神様は民衆宗教的な解釈でいうと「人を助ける」を原理にしていて、我々が前提にしている「共同体感覚」はそれをモデルにしているのだろうと思います。つまり、「自由」なみに、というか日本においては「自由」以上に超越的な根拠をもった概念であるはずなのですが、果たしてそういう把握はあるのだろうか。

大村さんの今度の本で、教員と子どもの学びの「同型性」をいいその「感染」の効果をうたったところや、教員の新しい環境への「慣れ」の必要性を指摘したところ(現場への知識の押し付けが教員のモチベーションを減退させる等の指摘など教員の身体性への着目も)が、現場にとって「限界効用」が一番高い、つまりありがたく役に立つ理論化、概念化であると思います。

これは、教員同士あるいは教員と子どもの間の「共同体感覚」についての実践的な把握といっていいでしょう。しかし、こういういわば当たり前なことが従来十分に概念化されてこなかったのはなぜなのか。「共同体感覚」を分析的に操作可能な、従属的なものとみて、それを自分たちが当事者として内側から生きるべき価値や原理として把握しようとしてこなかったことが大きな原因であるような気がします。