大井川通信

大井川あたりの事ども

ナンシー関の戦略について(批評をめぐって④)

ナンシー関の予言力について、彼女が亡くなって4年ばかり後の2006年に書いたもの。話題は、岸部四郎(1949-2020)。日本テレビ系列の朝のワイドショー「ルックルックこんには」の司会を、1984年から1998年まで15年に渡って務めた。「岸部が新司会者になったとき、その意味がわからなかった。11年たった今でもわからない。しかし、今や『意味がわからない』ということすら、みんな忘れてしまっている」「『なぜ、岸辺四郎なのか』は、まだまだ謎のままであり続けるだろう」とナンシーは書く。当時、彼女以外にこんな問いを提出した人はいなかった。しかし、この謎に対する意外な答えは、ナンシーの死後、岸部本人の口から告白されることになる。

 

ナンシー関の戦略をめぐって】

90年代に入ってから、とにかくテレビだけはよく見たので、消しゴム版画家ナンシー関のエッセイは雑誌や単行本でおもしろく読んでいた。彼女が2002年に亡くなったとき、自分が柄谷行人以後もっとも熱心に読んで、同世代を感じていた批評家が彼女だったことに改めて気づいた。

ナンシー関がいなくなってから、テレビを見ながら、これはナンシーに見せたかったという場面がいくつかあった。今はっきり覚えているのは、岸部四郎の次のような発言である。

岸部は、ワイドショーの司会者として破格の収入を得ながら、知人の保証人となってその借金が雪だるま式に膨れ上がったというかなり間抜けな理由で自己破産し、テレビ界を追われてしばらく雲隠れをしていた。そのホトボリがさめて、自分の失敗談を自虐ネタにしてトーク番組に出演しだした頃だった。彼は、ワイドショーの司会の仕事自体は、かなりいい加減にこなしていたという。ただ、テレビ局の担当者が変わった時には、誰に力があるのか見極めて、その人物の趣味を真っ先にかぎつけた。もしゴルフが好きなら、自分もゴルフを始めて、彼に気に入られることに全精力を傾けたという。その結果として、彼は降板を免れて、ワイドショーの長期出演と高額のギャラを手に入れたのだ。

ナンシーは、岸部四郎の地位がまだ磐石だった時に、「なぜ、岸部四郎なのか」という問いを立ち上げる。ナンシーは、岸部の存在の不思議さを、「意味がわからないことさえ忘れられた」「飾っている意味すら持ち合わせないお飾り司会者」というつっこみを入れることで際立たせる。ワイドショーという野放図な娯楽情報の提供番組の司会者には、岸部的な「空白」が必要なことを示唆しながら、なお謎が残るという風に。

岸部の告白で、彼がブラウン管上で極端に無意味な姿をさらし続けるためには、純粋に番組的な論理だけでなく、テレビ局内での様々な力関係と岸部の必死の働きかけがあったことが明らかになった。ナンシーの視線は、視聴者の誰もが注目するようなわかりやすいお約束に向かうのではなく、彼らの無意識を構成する背景の規則に向かっている。しかも、その規則の破れを見抜くことで、ブラウン管の裏側にまで突き抜けていく。もちろん、ブラウン管の裏側に現実=真実があるわけではないし、彼女も、別にそんなことは知りたくはない、と言うだろう。彼女の問いが本質的だからこそ、結果として、裏側の「現実」を巻き込んでしまったというべきだ。

 

ブラウン管前1メートルの世界に広がるリアリティ、そこには無数の欲望と自意識と政治とが交差している。・・ナンシー関という人は、この複雑なリアリティをその強靭な知的体力をもって、ほとんど独力で、批評の対象へと見事に昇華させた。(北田曉大『嗤う日本の「ナショナリズム」』あとがき  )

 

確かに大げさにすぎる賛辞という気もしないでもない。しかしそう思うのは、テレビの外側に、論ずるに値する何か本物の現実があると考えるからだろう。ナンシーにとって、「純粋テレビ」こそが、リアルだった。80年代において、時代を写し取り統括する機能において、文学作品はもちろん、他のあらゆるメディアに比べても、テレビは群を抜いていたわけである。その意味で、テレビの批評こそ時代のもっとも深い場所をとらえる可能性をもっていたのだ。