大井川通信

大井川あたりの事ども

「イエスの方舟」論 芹沢俊介 1985

報道された情報だけを使って、自らの解釈と思弁を強引に進めていく手法は読みにくいが、かつての批評のスタイルなのだろう。ただ前半で、家族(対幻想)の解体と変容という物差しを振りかざして、「既成の価値体系」にしばられた親を貶め、イエスの方舟の新しさを持ち上げるのは、少し乱暴ではないか。

事件から40年近くたった今も、親は汗だくで子どもを育て、子どもはそんな親に平気で愛想をつかすという風景は一向に変わらない。

後半では、連合赤軍統一教会と比較することで、イエスの方舟の集団のあり方を浮き彫りにする。方舟は人間のエゴや肉体を否定せず、おっちゃんと呼ばれ集団に対して受け身の千石剛賢によって分散的、中心解体的な共同性が成り立っていたという。

目を開かされたのは、方舟がもともと流浪の体質を持っていたという指摘である。関西から10名のメンバーで1961年に上京してから16年で6回多摩地区内を移動し、国分寺日吉町の教会を退去した後2年間の26名による逃亡劇が「事件」としてクローズアップされたのだ。

今回、千石剛賢が、僕の父親と同じ学年(1923年生まれ)の戦中派であることに気づいた。敗戦近くに徴兵され、戦後焼け野原でさまざまな職業を経験し、キリスト教にひかれた経験を持つことも共通である。流浪の集団による信仰生活も、彼が強いられた「非日常」への彼なりの筋の通し方だったような気がする。それがたまたま、高度成長以後の郊外の平和な日常の破れ目をつくろう羽目となったのだろう。

僕の実家は、日吉町の教会から歩いて15分ばかりの所にあって、当時会員が包丁研ぎの商売で回ってきたという話を聞いた記憶がある。逃亡劇の発端は、僕より少し年長の多摩地区の若い女性たちの参加だった。以前、方舟が経営する中州の『シオンの娘』が知人の行きつけだったために、何度か付き合ったことがある。歌や踊りのショーを見ながら、彼女らの一人と実家周辺の話で盛り上がり、東京でもここまで近い人は初めてだ、と言われたことを思い出す。

今年に入ってからテレビカメラが初めて古賀市の方舟の教会に入り、店で見かけた彼女たちが、想像よりはるかに折り目正しい聖書中心の生活を続けていることに驚いた。かつての防人みたいに東国から、偶然同じ玄界灘に行き着いた「同伴者」として、自分は何に祈り続けようか。