大井川通信

大井川あたりの事ども

『52ヘルツのクジラたち』 町田そのこ 2020

地元の公立図書館に講演に来るからということで、数年前に話題になった小説を手にとることに。上手に書けていて悪い小説ではないけれど、すこしモヤモヤが残った。もともと「小説家」の講演会に行くことはほとんどないし、あまり良い思い出もない。それでどうかと思ったが、地元の仲間と約束をしていたので欠席するわけにはいかない。

話を聞いて良かったと思った。いくつも発見があったし、作者には好感をもった。

作者はインテリやオタクというより、生活力やコミュニケーション力のあるタイプの人に見えた。美容?の専門学校を出て、いくつかの職業を経験し、結婚して子育てをし作家兼主婦をこなしているようだ。古い言葉だが、あねご肌の美人といった風。

何より驚いたのは本や小説へのアプローチの仕方だ。1980年生まれというから、作家としては中堅どころだろうが、僕とは20年くらいの年齢差がある。好きな作家や影響を受けた作家の名前をあげるが、僕とはまるで接点のない人たちばかりだ。

ただ、小学生の時に氷室冴子(1957-2008)の小説が好きで、好きな場面を繰り返し読んだために暗唱できるようになり、ノートに書き写したりしていたというエピソードはなるほどと思った。好きなフレーズ、イメージ、場面転換、物語の展開といったものが、幼いころから本と一体化するような読書体験で体得されているのだろう。作家を目指すようになってからも、自分では書けないと思える作品(桜庭一樹『私の男』)を一冊書き写したというから徹底している。

『52ヘルツのクジラたち』には、児童虐待やネグレクトや子ども食堂性同一性障害アウティングなど、今耳目をひきそうな社会問題が上手に取り入れられている。作品を読んだだけのときは、やや安易で作為的に思えたその部分も、作者が徹底的に物語の職人であって、自分の感覚で素材を取り入れている、そこには虐げられた人たちの後押しをしたい、読者に前向きな気持ちを与えたいという素直な善意がある、ということが感覚的に伝わってきた。

大好きでいつか会いたいと思っていた氷室冴子が亡くなったときに、作家になる夢を伸ばし伸ばしにしていたことを後悔し、28歳の時に本腰を入れて書き始めたそうだ。

現役で好きな作家は、凪良(なぎら)ゆう(1973-)と寺地はるな(1977-)だという。新しい地元の読書会のおかげで凪良ゆうの『流浪の月』だけはかろうじて読んでいる。少ない読書体験の中だけれども、『流浪の月』とどこか同じ匂いがするという読後の印象は見当違いではなかったことになる。

凪良ゆうも町田そのこも、書店員たちによる本屋大賞を受賞しているから、今の現役の読者層の好みをついているところがあるのだろう。そこから大きく外れている僕がややモヤモヤしたような部分が、逆に一般読者にとってうれしいところなのにちがいない。

安直に批判的にいってしまえば、ストーリー展開の「ご都合主義」と人物像の「うすさ」になってしまうのだけれども、これはずいぶん前だったら「少女漫画的」と言われる部分かもしれない。今は死語かもしれないが。

重要な登場人物(徹底的に孤独であるはずの人たち)が運命的に偶然出会ってしまうことは仕方ないとしても、キャラの善玉悪玉の区別がはっきりしすぎているようだ。「アンさん」はまるで聖人のようだし、「52」は無垢で汚れのない存在だ。「美晴」や「村中」は徹底して善意の友人。一方、主人公「キナコ」と「52」の親は徹底的なヒールとして描かれる。これは『流浪の月』でも強く感じたところだ。物語の背景を構成する人々は容赦なく悪人役を演じさせられる。

ただそうした欠点を見えなくするほどの、言葉の巧みさとイメージや語りの見事さは僕にもわかる。クジラの使い方もうまい。僕は本当は、生き物の生態を人間側が都合のよいイメージとして使うのが嫌なのだが(以前尾崎一男『虫のいろいろ』で批判を書いた)、この小説に関してはあげ足を取る気もうせてしまった。

講演の参加者からの事前アンケートで、読了後本を抱きしめて放したくなかった、という感想があったそうだ。作家冥利につきるだろうし、物語がそんなふうに受け渡される光景は悪くないと思う。