僕の子どもの頃は、父親がチャンネル権(これも死語だろう)をしっかり握っていて、他の家族にも見たい番組があるはずだと想像力を働かせたりする様子はまるでなかった。父親の世代では、中年すぎてようやく手に入れた高価なおもちゃを家長の自分が思い通りにあつかうのに何のためらいもなかったのだろう。もっとも、子どもが好きな番組を見ることができた家も多かったのだから、世代ではなく父親の個性が原因と考えるべきなのかもしれない。
あの当時の小学生でドリフターズの『8時だョ、全員集合』(1969-1985)の話題に参加できないのはきつかった。『仮面ライダー』(1971-)や人気刑事番組『太陽にほえろ』(1972-1986)を見ることもできなかった。子どもたちに人気のアイドルやスターが出演する歌謡番組もNGだった。
それでも、当時のテレビ事情にまったく不案内というわけではないのは、父親が帰宅する夕方までの再放送番組や父親が入浴中のわずかな時間で視聴の欲求を満たしていたからだろう。また、子供雑誌などで情報をおぎなえたのだ。
僕の中に父親への反感が根深くあるのは、食事中の話題の独占(同僚と飲酒する習慣のない父は、えんえんと職場のネタを話しつづけた)とともに、このチャンネル権の独占という「専横」があるのはまちがいない。
だから、自分が自由に見ることができるテレビを手に入れたときはうれしかったが、仕事が忙しくなるにつれ、自然とテレビを見ることから離れてしまった。僕が人生で一番テレビを見たのは、たぶん1990年代で、それがたまたまナンシー関が活躍した時代と重なっていたのだ。それで彼女のエッセーを批評対象とともに十分に味わうことができたのは、幸福だったというべきだろう。当時はみるべきものが限られていたうえに、それを的確に批評する言葉など存在していなかったのだ。
今では、様々な動画コンテンツがあふれ、玉石混交のコメントがそれらとセットで提供されている。コンテンツもコメントも誰もが発信者となれる時代なのだ。僕もテレビの放送をほとんど見なくなった。
ナンシー関が亡くなって、今日で21年。