大井川通信

大井川あたりの事ども

安部さんを弔う(評論の魂)

安部さんについて、二つの謎があると書いた。

繰り返すと、一つは、福岡での美術評や映画評の書き手としての飛躍を可能にしたものが何なのか、という謎。もう一つは、安部さんの繊細な内面に、素朴にすぎるような思想が同居できたのはなぜか、という謎だ。

僕は今まで、この二つの謎を別々に考えていて、そのため特に後者の謎を解く手がかりさえ持たなかった。今回、吉田さんとの勉強会で議論する中で、二つの謎が根底においてつながっていることに気づいたために、自分なりに納得のいく理解を得ることができたような気がする。

最大の発見は、安部さんが、このブログでも扱っている「評論の時代」の申し子だったということだ。灯台下暗しというか、このテーマで安部さんを思い浮かべたことはなかった。

膨大な知識の体系によってではなく、ごく少数の独自で単純な概念装置のみによって、世界全体を直につかみ取るような所作と気合をもつ「評論家」(一般的な定義ではないが)がかつては存在した。その評論をささえる概念は出来合いのものではなく、書き手自身の身体的な経験に裏打ちされた切実なものでなくてはならない。

福岡に帰省した当時の安部さんは、潜在的にこの条件を備えていたのではないか。と同時に、書き続ける中で、自らの評論の核というべき思想的身体=身体的思想に否応なく目を向けることになり、それを共同で手探りできる場所として、あの当事者グループを「発見」したのだろう。

だからこそ、あのグループの中で安部さんが披歴したのは、巧緻な言葉の作品ではなく、それを生み出すための思想的身体の裸の姿だったのだ。

 

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